
この記事には東日本大震災の被害に関する写真や記述が含まれます。お読みいただくにあたり、恐怖や不安など強いストレスを感じる場合があります。この点をご留意ください。
加藤文宏
旅のはじまり
そういえば、いわき市に行ったのは1年以上前だ。しかも講演のあと手短にインタビュー取材をして帰るほかなかった。
安倍晋三元首相暗殺事件後の怒涛のような日々の中、落ち着いて福島県の相双地域(双葉郡以北)といわき市を訪問できないまま月日が過ぎていた。そこで北は浪江町から南はいわき市にかけて、何が変わり、何が変わらないままか、変化を知る旅を計画した。
変化を知るため、浪江町から四倉地区まで約50kmを気のむくままに移動する。
双葉郡の浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町は福島第一原発半径20km圏で、広野町は30km圏だ。この同心円の外側に、いわき市の四倉地区がある。
双葉郡以北といわき市を合わせて浜通りと呼び、両者を区別していわき市だけを浜通り、双葉郡以北を相双地域と呼ぶ場合もある。一見すると似通った地域に思われがちな浜通りと相双地域だが、二つの地域は文化が異なり、さらに双葉郡内も文化に違いがあるように感じられる。そればかりか、東日本大震災によってもたらされた原発事故の被害や補償についても差が生じた。
宿は福島第一原発と復興再生土の中間貯蔵施設がある大熊町の、復興拠点ほっと大熊にした。ほっと大熊は町民の一時帰宅や墓参りなどを想定して2021年に開業した宿泊温浴施設で、このほか交流施設と商業施設が組み合わされて大熊町交流ゾーンを形作っている。それぞれの施設は町民以外の利用も可能だが、いままで予約が取れなかったので初めての宿泊になる。この宿泊もまた、旅の重要な目的のひとつだ。
出発当日、関東から常磐自動車道で常磐富岡を目指した。常磐富岡から向かったのは、双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館だ。その後、北上して浪江町へ、再び南下して双葉町を通過し大熊町のほっと大熊にチェックインするため移動した。
足しげく通った勝手知ったる場所と慢心していた。カーナビを使わず気ままに運転していたら、大野駅周辺で道に迷ってしまった。整備事業の工事による通行止めを回り道したら、デザイナーハウスが整然とならぶ一画や、重機が動き回る真っ平らな更地と、戸惑い慌てるほど景観が変わっていた。風景が一変していたのは大野駅周辺だけでなく、浪江町の沿岸部も変貌していた。
浪江町沿岸部の大きな変化は、整地作業と道路の復旧工事が終わり、防潮堤が完成して、水産会社の社屋が新築され、苕野神社が再建されただけかもしれないが、知っているはずなのに知らない土地に来たような不思議な感覚が去来する場所になっていた。
双葉町のネムノキ

被災して荒れた土地で満開になっていたネムノキ
道に迷っただけでなく、気がむくまま自動車を走らせていると、ネムノキの赤い花が気になった。
被災地とネムノキが私の中で結びついたのは、10年以上前だった。
相双地域といわき市を南北にまっすぐ結ぶ国道6号を移動しているとき、避難指示が出されていた双葉町の民家にネムノキが生えているのを見つけた。この木が気になったのには理由があった。国道に面した前庭に生えているネムノキの枝が、無遠慮に玄関を塞ぐように枝を伸ばしている姿が尋常ではなかったのだ。
ネムノキは土がなくても発芽し、根が土を求めて伸びるくらい繁殖力が旺盛だ。しかも成長が早い。家や農地を管理する人が町からいなくなったため、雑草がはびこるようにネムノキが一帯に広がったらしい。
国道6号は相双地域といわき市を移動するのに必要なだけでなく、他の道が帰還困難区域に含まれ封鎖されているので、両地域を訪ねるたびネムノキの家の前を通らざるを得なかった。ある年のネムノキは背が高くなるだけでなく、さらに幅広く枝を伸ばしていた。そうかと思うと、隣家が解体された年は小さく刈り込まれていた。
今年は、庭の別の場所にもネムノキが生えていた。どちらのネムノキも激しく枝を伸ばしているうえに、開花期とあって花が満開だった。

ネムノキが国道6号沿いの家だけでなく、他の空き家や、津波で被災して荒地になった場所にも増えているのを知ったときから、私はこの花を美しいと思えなくなり脅威を感じるようになった。今年もネムノキの脅威が相変わらず居座っているだけでなく、以前は生えていなかった場所にまで進出していたので「まいったな」と思わずにいられなかった。
だが対照的に、大野駅の周囲で整備事業が始まり、まるで別の町になろうとしていたのは前述した。大野駅を通過して、東日本大震災・原子力災害伝承館に近づくとやはり景色の印象が変わっていた。これらはどれも整然としていて、新天地と呼ぶほかない景観を形作っている。
しかも伝承館の隣にある双葉町産業交流センターの敷地で、約70のブースが立ち並ぶ標葉祭りの会場設営が忙しく行われていた。祭りでは高さ3.3m、重さ700kgのだるまを挟んで来場者が綱を引き合う巨大ダルマ引きが行われるという。震災以前のようにはいかないだろうが、人々が集うのだ。

東日本大震災・原子力災害伝承館

標葉祭りの設営作業

東日本大震災・原子力災害伝承館の屋上から見た海
巨大ダルマがトラックでやってきて、標葉祭りの設営場所に入場するのを見届けてから伝承館に入館した。伝承館を訪ねて展示で震災と原子力災害の被害を目の当たりにするのは初めてではないが、今回も内容に圧倒された。
私とともに首都圏からの自主避難者問題の解決に当たった原岡ひさのは、この災害の当事者で避難者だが、恐怖がぶり返すので伝承館の展示を最後まで見たことがないという。彼女は関東に避難して被災地の日常から離れたため、日々の変化を経験できず、時間が止まったままになっているので、いつまでも恐怖を克服できないのではないかと語っている。
原岡の恐怖に比べたら、私がネムノキに感じる負の感情は大したものではないだろう。しかし震災や原子力災害の痕跡を象徴するネムノキと、再整備事業の様子や人々が集う祭りの準備が別世界の出来事に感じられた。
このように感じるのは、私が当事者ではなく、しかも数年間の空白期間を置いて相双地域にやって来たよそ者だからなのだろうか。
新天地と時間の流れ
宿泊したほっと大熊がある大熊町交流ゾーンは、整然とした新天地だ。まず宿泊施設が新しいだけでなく、スマートで気が利いている。隣接する大熊町役場と、いとこ関係にある施設なのが一目で分かる一体感もある。
ほっと大熊の駐車場を出たところに、罹災した人たちが暮らす大川原第一災害公営住宅の街区がある。これは町がURとともに基盤整備から進めてきたプロジェクトで、家屋のすっきりした造りだけでなく、敷地内には芝が植えられ、せせらぎのようなものまであり、仮設住宅とは一線も二線も画すものであるのが一目瞭然だった。
災害公営住宅の東側には、大熊町子育て支援住宅と大川原再生賃貸住宅がある。どちらも帰還したり移住や転入する人のための公営住宅で、子育て支援住宅は18歳までの子と同居する子育て世帯を対象に用意されている。2025年7月初旬現在、子育て支援住宅は空きなし、再生賃貸住宅は3LDK(車いす専用)棟が一軒だけ空いている状態だ。

大川原第一災害公営住宅
大熊町の人口は現在約9,900人で増加傾向にある。このうち町内居住人口は1,400人台で、東電の社員を除くと帰還者は約310人、新規転入者は約680人だ。新規転入者の比率が大きい背景に、移住支援金、住宅購入やリホーム補助金、子供医療費の助成(無償化)、起業支援金などの充実がある。
また双葉町も大熊町同様に人口が増加していて、こちらも支援金等による移住者へのバックアップが充実している。私が変貌ぶりに驚いて道に迷った大野駅は双葉町にあり、駅から500mほどの場所に整然と戸建て住宅が並んだ大野南再生賃貸住宅がある。
とはいえ、ほっと大熊や大野駅の周辺を離れると人の気配が薄れたり、消えてしまう。こうした事情は他の自治体の鄙びた場所と変わらないかもしれないが、常磐線の線路を越えると帰還困難区域があるため脇道に入ることができず、道をひたすら真っ直ぐ進むほかなくなるのは、大熊町や双葉町固有の問題だ。
国道6号に出ても事情は同じで、一般車両の全面通行が可能になった2014年から変わっていない。
それでも国道6号を南下して、富岡町、楢葉町、広野町と進んで福島第一原発から離れると事情が変わる。富岡町の一部を除けば気を使わず交差点を左右に曲がり、国道から外れてもバリケードはなく、茨城県や千葉県のどこかで自動車を走らせているような気さえしてくる。
ただし温泉とサウナまである道の駅ならはに車を停めると、原発事故時に自衛隊の除染所や事故に対応する関係者の宿舎となったJビレッジが目の前にあり、施設そのものも双葉警察署の臨時庁舎だった頃の印象が重なって、ここが緊張の最前線にあったのを思い出さずにはいられなかった。
2001年に開館した道の駅ならはは、開館10年目に原発事故で休館を余儀なくされ、警察の臨時庁舎としての使用が終わったのは2019年3月だった。この1カ月後に営業を再開させたが、休業期間が全国の道の駅の発展期と重なったせいか、さらにコロナ禍もあってか、何かと古びた印象が漂っている。
駐車場にいた人に話を聞くと、温泉施設があるため車中泊の穴場なのだそうだ。この人は、「人が少なくて昼も夜も静かなので、いつも連泊している」とも言った。これが不運続きだった道の駅ならはの現在だ。

道の駅ならはから見下ろした国道6号
正午前だが交通量が極めて少ない(道の駅が再開されるまで案内板の下半分に赤い字で「道の駅は現在 休館中です」と表示されていた)
ラッキー公園の希望
道の駅ならはの営業が再開した翌年の2020年、浪江町役場のそばに開業したのが道の駅なみえだ。避難指示が一部で解除され、住民が帰還し始めると生活の場を充実させる必要が生じたため建設された施設だ。

道の駅なみえ 平日の午後3時30分
産直売り場とフードコートだけでなく無印良品まである道の駅は、平日の朝から駐車場の空き枠が埋まっていく。ナンバープレートを見ると双葉郡といわき市周辺で登録されたいわきナンバーの車が多い。土曜日、日曜日ともなると、駐車場は空き枠を探すのが難しくなるほどで、まるで高速道路上の人気サービスエリアのようになる。
土曜日の夕刻、食事をしようと道の駅なみえのフードコートへ行くと、とても若いカップルと高齢の夫婦が券売機の列に並んでいた。
「この時間に来ると、ほら海鮮丼がなくなっている。だから、早く行こうと言ったんだよ」と言いながらも、老夫婦は楽しげだった。
産直売り場には土産を物色する旅の人もいれば、生鮮品や冷凍品を買う地元の人がいる。道の駅なみえの裏手にはポケモン公式ラッキー公園があり、子供たちの格好の遊び場になっている。

ポケモン公式ラッキー公園
ラッキー公園の先は請戸川の土手で、散策コースが整備され、犬を連れた家族たちが立ち話をしていた。

請戸川と散策コース

請戸川と散策コース
道の駅なみえが完成するまで、周辺は民家が並ぶありふれた地味な町で、請戸川と土手は荒れ果てていた。
一部地域で避難指示が解除され、道の駅建設計画が動き始めた2017年の出来事だが、人けのない町並みを眺めていた私はパトロールの警官に「なぜ、ここに居るのか。どこから来たのか」と厳しく職務質問された。「これからどこへ行くのか」と問われて、「請戸川の土手へ出てみようと思う」と答えると「すぐここから立ち去るように」と指示された。
このため土手へ出るのをあきらめたが、請戸川にかかる橋の上から眺めてみると雑草が生い茂る殺伐とした場所なのが分かった。土手の散策コースだけでなく、周辺一帯の何もかもが道の駅なみえと同時期に整備されたのである。
今年の旅では、道の駅なみえを拠点にして動き回った。双葉郡の北端を拠点にすると移動に無駄があるように思われるかもしれないが、ここにくれば周辺の施設を含め何もかもが揃い便利このうえなかったのだ。しかも箱物が造られただけでなく、箱物がとことん利用されていて、あらゆる年齢の人たちがみな柔和な表情をしているのも心地よかった。
徒歩圏内で衣食住のすべてが賄えるのは東京都の区内くらいだろうが、道の駅なみえの盛況ぶりは他の地域に同様の施設と、施設を中心にした人の流れがないのを意味する。
たとえば、道の駅ならはとの差だ。
道の駅なみえと道の駅ならはは、地域ごとの被災内容と、復旧や復興の内容に違いがあるのを端的に表している。おのずと、地域ごとに人々の考えや感情や立場が変化する。あたりまえだが、それぞれの被災地同士の関係にも、運と不運だけでなく利害の違いが生じる。そして、皆が一様に頭を抱えていた時代が終わったことで、地域や立場に生じた差や利害関係が拡大しているように見えた。
だが原子力災害を大げさに騒ぎ、処理水を汚染水と言い換え、復興再生土を汚染土問題化しようと目論んでいる報道機関や政治家は、あまりにも粗雑に「被災地」をひとくくりにしている。
ほっと大熊を出て、道の駅なみえを拠点にして、再びほっと大熊に戻る私は、そのたびネムノキの家の前を通り、他の場所でも花をつけたネムノキを見た。新天地とネムノキが象徴する葛藤を、私はどうしても整理できないままだった。
メートル原器と理解
私は相双地域と浜通りの過去から現在を知ろうとしている。
過去と現在を繋ぐための施設として東日本大震災・原子力災害伝承館があり、出来事の原点を知るために震災遺構・浪江町立請戸小学校がある。
請戸小学校は海から300mの位置にあり、震災当時は海岸から地続きだった。同小学校は15mに及ぶ津波に襲われただけでなく、原発事故のため住民に避難指示が出され、その後廃校となった。2021年に震災遺構として公開されるまで請戸小学校の周囲には長らく瓦礫が散らばり、雑草が生い茂り、池か湖のような大きな水たまりまであったが、現在はすっきりと整備されている。

請戸小学校 2017年10月

請戸小学校 2017年10月

震災遺構・浪江町立請戸小学校の体育館側から大きな水たまりがあった場所を臨む 2025年7月
近隣の津波による被害は大きく、請戸地区では死者127人、行方不明者27人を出したものの、請戸小学校の児童と教職員が無事避難できたことは何ものにも代え難い救いである。
2011年3月11日の津波到達前、下校した1年生を除く2年生から6年生までの児童82人が校舎に残っていた。防災放送が津波警報を発すると、教職員が児童を校庭に集め、指定された避難場所である太平山に誘導した。
太平山は校舎から内陸側へ約1km先にあり、さらに児童と教職員は山の登り口へと500mほど回り込み、山中を通過して海から2.5km離れた国道6号に出た。このとき空荷のトラックが通り掛かり、児童と教職員を荷台に乗せて浪江町役場まで運んだ。
人命は失われなかったが、校舎は壊滅的な状態になった。

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階 印刷室
1階の天井や壁面は被災時のままだが、床は見学者が立ち入れるように整理されている。印刷室のみ当時のまま保存している

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 1階

震災遺構浪江町立請戸小学校 階段踊り場 津波浸水深の表示がある

震災遺構浪江町立請戸小学校 2階
被害の内容と程度は地域によって違いはあったが、津波は相双地域と浜通りだけでなく、北海道、岩手県、宮城県、茨城県、千葉県を襲った。福島第一原発事故も津波による電源喪失が発端となって発生した。すべては津波から始まったと言ってよいだろう。しかし、その後の復旧や復興の在り方、社会や政治からの注目度、その扱われ方は一様ではなかった。
私は当事者ではないが、幸いにも請戸小学校の10余年を垣間見る機会を得た。相双地域と浜通りの過去と現在だけでなく、甚大な被害を受けた地域を考えるとき、請戸小学校をメートル原器のような基準点にしようと思った。
再び国道6号を南下
大熊町ではひさしぶりに林智裕さんや、ずっと会いたいと願ってきた人と話し込んだほか、以前原岡から紹介された人と会うなどした。やはり会って話をしなければ分からないことは多い。
旅の最後は、何度も行き来した国道6号を浪江町からいわき市に南下して締めくくることにした。
国道6号沿いの変わらないものといえば、線量を掲示する情報表示板だ。現在は線量の数値を表示するだけだが、かなり以前は「窓閉め敢行」など文字表示もしていた記憶がある。いずれにしても、表示されている数値は健康に影響を与えない線量だった。

国道6号 双葉町高万迫 情報表示板
情報表示は現在でも常磐自動車道上やパーキングエリア内で行われているが、私だけでなく他のドライバーも以前のように気にしなくなり、施設内で数値を凝視している人をまったく見かけなくなった。

常磐自動車道湯ノ岳パーキングエリア・下り(福島県いわき市) 2018年6月

常磐自動車道ならはパーキングエリア・下り(福島県双葉郡楢葉町) 2018年6月
いったい私たちは何を怖がっていたのか。どれほどの人が、表示されたり報道された数値の意味を理解していたのか。この空回りしていた不安が被災地に与えた影響に気付いていた人は少なく、その不安も忘れ去られてしまった。
原発事故の直後、首都圏のスーパーマーケットには「東北産は扱っていません」のほか、婉曲に「関西産が入荷しました」と張り紙されていた。福島産の農林水産物が放射線量検査を受けてから出荷されていたにもかかわらず、これらは長期にわたって店頭に陳列されなかったのだ。
このとき青果市場の関係者は、消費者が買ってくれないだろうと思った。小売業者も同じように考えた。しかし、消費者の不安はとても曖昧なものだった。
楢葉町で国道6号から脇道に入ってしばらく走っていると、モール風の商業施設に地元資本のスーパーマーケットがあった。中に入ってみると、お客さんが福島県の産地名が表示されている野菜や魚や肉を品定めしていた。
国道6号に戻ると5分ほどで道の駅ならはに到着した。物産館では、つくばナンバーの自動車から降りて入店した人たちが、地元産の野菜やきのこを買い物かごに入れてレジで会計をしていた。
被曝を連呼する反原発派の人たちは、スーパーマーケットと物産館の様子を見たら何を言い出すのだろう。彼らは、こうした日常を見なかったことにしているか、まったく知らないのではないか。
道の駅ならはを出て、国道6号の先に見えるJERA広野火力発電所の巨大な煙突を目指してアクセルペダルを踏んだ。JERAは東京電力と中部電力の合弁会社で、東電の唯一の電力供給地外にある火力発電所である。この発電所も東日本大震災の津波で被災して全停止を余儀なくされた。その後、被害が少なかったタービンから復旧させ、原発停止で危機的状況に陥った東電管内に電力を供給したのだった。
東電管内の住民で、この事実を知っている人がどれほどいるだろうか。福島第一、第二原発だけでなく、福島県で生み出されたエネルギーに東電管内の人々は支えられ続けてきたのだ。さかのぼれば本州最大の炭砿だった常磐炭鉱の石炭が首都圏と日本の近代化を支えてきたが、これさえ忘れさられてしまっている。
そして私は「東北にハワイを!」の掛け声で作られた常磐ハワイアンセンター、現スパリゾートハワイアンズがあるいわき市を目指して車を走らせた。
昭和30年代後半、石炭はエネルギーの主役の座を石油に譲らざるを得なくなり、石炭産業が没落した。石炭に依存していた地域経済は壊滅的打撃を受け、豊富に湧き出る温泉を利用した観光業へ舵を切る決断をした。相双地域に東京電力の原子力発電所が立地しているのも、こうしたエネルギーと地域の問題に原点がある。だが、これも忘れられてしまった。
広野町を過ぎ、いわき市の四倉海水浴場に到着した。
海水浴場の駐車場と、隣接する道の駅よつくらの駐車場に、車と人があふれかえり、東日本大震災後に作られた防潮堤は別物になっていた。
2017年の9月、防潮堤は完成していたが法面に木々が植え付けられたばかりで、コンクリートの土台に土をかぶせた構造がはっきり見て取れた。

四倉海水浴場・防潮堤 2017年9月

四倉海水浴場・防潮堤 2017年9月
この防潮堤の植栽が、まるで海に面した自然の林のように成長していた。
木々が苗に過ぎなかったとき、津波被害を受けて復活は難しいとまで言われた四倉で、防潮堤が海を隠してしまい慣れ親しんだ景観を変え過ぎたとこぼす人がいた。8年が経過して、たしかに防潮堤で海は見えないが、こんな丘と林があっても良いかもしれないと思える景観になった。
だが防潮堤の登り口近くに、遊歩道の途中に、ネムノキが赤い花を咲かせていた。この防災緑地と呼ばれる植栽に植えられたのはクロマツ、クヌギ、コナラ、エゴノキ、ヤマハンノキ、ヤマザクラ、ヤマボウシだったので、ここでもネムノキはどこからかやって来たようだ。

防潮堤のネムノキ
もしかすると四倉地区でネムノキを気にしているのは私だけかもしれないが、ここが被災地であるのをどうしても強く意識せざるを得なかった。
ネムノキが目立つ遊歩道を抜けて防潮堤のてっぺんに出た。眼下にヤシ、その向こうには砂浜と、楽しげな人たちと、海があった。砂浜では、監視台がもうすぐ完成しそうだった。

四倉海水浴場

四倉海水浴場
震災と原子力災害、傷跡、再整備事業の様子と人々、地域ごとの運と不運。これらは、四倉海水浴場に来ても整理できず、混乱を解決できないままだった。しかし、「あまり深刻に考えないほうがいい」と四倉の海に諭された気がした。それぞれの地域、それぞれの立場に対して、よそ者の私が理解できると思うほうがおこがましいのではないかと。
賑わっている道の駅よつくらへ行った。
林さんたちとの宴席に出た大粒のブルベリーが陳列されていたので買った。おのざきの厚揚げソフトかまぼこも買った。立派なエゴマの葉も買った。クーラーバッグにはほっと大熊を出発した時から氷の塊と、大熊町のおおくまパン、おおくまあんぱん、肉球クリームパンが入っている。小野のしずく、大熊町で採取された百花蜜と、いただきものの二種類のはちみつもある。常磐ものの魚は腹に収めた。
ひとまずこれで関東に戻る。
私には分からないものが無数にあると思い知らされたのを収穫としようと思う。防潮堤のてっぺんから、四倉地区を眺めて旅の終わりを実感した。この景色のずっと向こうに日本のハワイがある。

防潮堤から見た四倉地区
編集部より:この記事は加藤文宏氏のnote 2025年7月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は加藤文宏氏のnoteをご覧ください。






