歴史認識において戦後の節目の年を見ていくと過去、大きく変節してきています。非常にざっくり言えば10年目は戦争責任や賠償といった目先の事象が中心だったものが、徐々に戦後復興や戦争記憶が中心となります。概ね1985年の戦後40年談話ぐらいまではこの範疇に収まります。新しい切り口となったのが村山談話とされる1995年の戦後50年の節目でした。
村山首相(当時)は植民地支配と侵略への謝罪と反省という被災国への気持ちを表しています。これは2005年の小泉首相(当時)がさらに進化させ、戦争記憶と次世代へのどう伝え継ぐかという課題を示しています。更に2015年の安倍首相(当時)は過去の歴史認識を踏襲しながらも未来志向という発想を提示しています。
つまり歴史認識は内から外へ、過去から未来へ、という二次元的な展開を見せてきたのです。
今般、石破首相は戦後80年の歴史認識を表明するとしていますが、もう少し先にするようです。果たして首相の座に留まるうちに談話を発表できるかという興味もありますが、石破氏が談話を発表するとなれば長い歴史認識のベクトルをそのまま延長するのか、角度をつけるのか、興味深いところではあります。

石破首相 首相官邸HPより
世界の歴史を紐解くと欧州が大航海時代を通じて世界を探索、探検し、それまでの地図には存在しなかったアメリカ大陸を発見し、欧州人がこぞって「我が地なり」と侵攻、原住民を虐殺し、自らの帝国を作り始めます。そして彼らは太平洋にも進出し、本国とはほとんど連絡が取れないような太平洋の島々をはじめ、アジアで植民地を次々と作り出していきました。
欧州人はなぜ、それほどまでに征服欲が強いのか、これはテーマが全く別なのでここでは詳しく取り上げませんが、私の見立ては一神教の縛りが強い存在意識を生み出す根源ではないかと考えています。イスラム教は当時はまだ遅れていたので爆発的普及を見せたキリスト教が彼らの領土欲、支配欲、独占欲をそそのかしたとしたらどうでしょうか?一方、アジアを中心に展開した仏教、儒教、神道といった宗教観は征服欲が薄いとされ、日本の戦前の一時期や各国内の内部闘争を除き、基本的に外より内向きで平和志向であったため、欧州人の植民地支配時代に対してアジア人は常に防御であったともいえます。
一部の歴史見解には「日本の戦争時代とはアジア地区における欧米の植民地支配からの解放を目指したものである」と主張するものもあります。それには一理あるのですが、もちろんもろ手を挙げて賛成できる筋論でもありません。ちなみに西郷隆盛の征韓論は当時鎖国をしていた朝鮮を武力を持って開国させようというのが一般的な理解だと思います。ではその理由はご存じでしょうか?それはロシアの南下リスクがあり、日本がその影響を受けることが懸念されたために西郷が朝鮮に開国を迫り、足腰を鍛えて立ち上がらせようとしたというのがストーリーラインです。つまり、西郷は欧米による植民地政策への防御策を目指したと言えなくはないのです。
日本も一時期を除き基本的には平和志向でありますが、もちろん歴史を見れば豊臣秀吉の朝鮮出兵など例外はあります。これなど出兵に関し、いまだに明快な理由は出ておらず、歴史学者が様々な見解を示しているところですが日本人の傾向というより秀吉の単独的判断であり、朝鮮出兵させられた武士は基本的にはあまり気が進まない戦いだったと理解しています。
戦後80年の節目の折、ウクライナやガザでは戦争が起き、きな臭い時代に突入しています。
これを踏まえ、戦後80年の談話は過去のベクトルを延長させるなら被爆国日本が発する世界平和憲章ぐらいの立ち位置でもよいのではないかと思います。一方、日本の一部には再軍備、ないし核武装という意見があるようですが、私が明白に思うのは日本は一神教の欧米人ではないということであります。よって彼らの真似をする必要はないのです。つまり、いくらG7の構成国であろうとも紛争について彼らと共同歩調ばかりではなく、自国の筋を通せばよいのです。日本は平和を心底望んでいる国であるわけで、戦争に参加せず、解決を模索し、安寧を目指すと明白なステートメントを出す勇気も必要でしょう。
一方で自国を守るという軍隊は必要だと思います。あくまでも自己防衛手段であり、同時に国民に国防を「交渉による外交」と「防衛戦力による自衛手段」をもつことで自衛の国民意識を一体化させる意味でも必要だと思うのです。一方で核を持っていれば相手は攻めにくいから日本も核武装すべきという考え方は果たして本当に論理的なのか、今一度、一歩下がって冷静に考える必要があります。欧米流の思考回路に乗せられた時点で日本の負けだと私は考えています。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2025年8月7日の記事より転載させていただきました。






