
吉野ヶ里遺跡北内郭=卑弥呼の都のイメージ
写真AC
私は魏志倭人伝は信頼できない資料だと考えています。魏志倭人伝では、倭国は「遠い南の大国」に脚色されました。著者の陳寿による2つの重大な誤解も、読者を混乱させています。
脚色は司馬懿の功績を讃えるため
倭国が脚色されたのは理由があります。魏志倭人伝は西晋で書かれました。西晋の創業者は司馬懿です。陳寿は司馬懿の功績を讃える必要がありました。
239年の卑弥呼による魏への遣使は、司馬懿が遼東半島を実質支配していた公孫氏を滅ぼすことによって実現しました。中国では皇帝に使いを送ってきた国が遠ければ遠いほど、大国であれば大国であるほど、皇帝の徳が高いとされていました。
10年前の229年の大月氏国(中央アジア)の遣使は、司馬懿のライバルである曹真の功績でした。司馬懿を讃えるためには、倭国は大月氏国よりも遠い大国にしなければなりませんでした。
洛陽から大月氏国までは1万6370里でした(後漢書郡国志)。洛陽から楽浪郡までは5000里(同)、魏使の出発地である帯方郡は楽浪郡の南を分割して置かれました。倭国は帯方郡の東南1万2000里とされ、大月氏国よりも遠い国(1万7000里)とされました。
陳寿は帯方郡の東南1万2000里から計算し、女王国(倭国の王都=卑弥呼の都)は会稽郡東冶県の東にあると推定しました。現在の台湾付近の海上になります。これが陳寿の誤解の1つ目です。

倭国を遠い南の国に脚色
魏志倭人伝の里数は、1万2000里という誇大な数字が最初にあり、国と国との間の里数が適当に割り振られたのだと思います。魏の時代の1里は434mでしたが、地域限定または時期限定で1里70~90mだったという短里説があります。しかし、下表のとおり、魏志倭人伝の1里の長さは場所によってばらばらで、一定の基準に基づく数字だとは考えられません。短里はなかったことを示します。

倭国には南方の風習が盛り込まれました。樹木年輪の酸素同位体比の研究により、弥生後期から古墳時代は寒冷湿潤の気候だったことがわかっています。魏志倭人伝に書かれたような「倭の地は温暖で…皆はだしである」というようなことはありませんでした。会稽東冶の東に合わせた想像です。

倭国を大国に脚色
魏志倭人伝は、邪馬台国、投馬国の戸数を7万戸、5万戸と記述しています。後漢の時代には、長安のある京兆尹[けいちょういん]という地域の戸数が5万3299戸、楽浪郡が6万1492戸と記録されています。日本列島にあった国が、大陸の大都市と同規模ということはありえません。
女王国は大率という出先機関を置いて女王国以北を監察していると書いていますが、よく考えればおかしな話です。女王国以北とは対馬国から投馬国までを指すはずですが、奴国、不弥国、投馬国は伊都国より南にあります。
伊都国に置いた大率が伊都国よりも南(女王国寄り)にある国、特に南に水行20日の投馬国を監察するというのは矛盾しています。大率の記述は、倭国を統治機構の整った大国であるかのように見せかけています。

卑弥呼の墓の記述(径百歩=150m)も誇大です。卑弥呼が死んだ時期は、狗奴国との戦争中でした。卑弥呼の死後には政権に混乱も生じました。そんな時に巨大な墳墓はつくれません。殉葬者がいる墳墓も日本列島では見つかっていません。
魏志倭人伝では、倭国が「遠い南の大国」に脚色されていることは、私のnoteで詳しく紹介しています。
陳寿は女王国を邪馬台国だと誤解
陳寿はもう1つ、重大な誤解をしました。女王国は邪馬台国だとかん違いしたのです。
陳寿が参考にした元資料には、女王国の具体的な国名の報告がありませんでした。陳寿は女王国の国名を探したでしょう。そして、たまたま邪馬台国の資料を見つけました。
女王国も邪馬台国も女王がいる国であり、船で行く国でした(女王国は会稽東冶の東、邪馬台国は水行陸行)。陳寿は両者を混同してしまいました。会稽東冶の東だから、邪馬台国は九州北部から「南」に水行陸行とされたのです。
魏志倭人伝は脚色と誤解によって書かれました。大部分の脚色は元資料の段階からなされ、陳寿が二重の誤解を付け加えました。読者は混乱し、邪馬台国論争に結論が出ない原因となっています。
邪馬台国は、陳寿が女王国だと誤解した国に過ぎません。そもそも邪馬台国は魏志倭人伝に1ヶ所しか登場せず、影が薄いです。3世紀は地方の新興国でした。女王国と邪馬台国は別の国であり、卑弥呼は邪馬台国にはいませんでした。そう考えることで、魏志倭人伝の矛盾が解けてきます。重要なのは邪馬台国の所在地ではなく、女王国の所在地です。
女王国の所在地を突き止めるためには、邪馬台国までの水行陸行という行程は無視して考えなければなりません。女王国は伊都国から遠くないところにあり、九州北部にあったことは明らかです。
考古学的に外交拠点にふさわしいのは、現在のところ、中国鏡と楽浪系土器が集中的に出土する奴国と伊都国と考えられます。女王国は伊都国から離れたところにありましたから、候補は奴国に絞り込まれます。遺跡でいうと、福岡市博多区の比恵・那珂遺跡です。
邪馬台国は大和にあったけれども、卑弥呼は博多(奴国)にいたというのが私の説です。「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」と呼んでいます。

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浦野 文孝
千葉市在住、古代史に関心のある一般市民。
note:https://note.com/fumitaka_urano






