
近年、関ヶ原合戦に関する研究が急速に進展している。先月には高橋陽介『シン・関ヶ原』(講談社現代新書)が上梓された。これを機に、関ヶ原論争の重要な論点の一つである「小山評定」問題について若干の私見を述べたい。
「小山評定」論争の概要
通説によれば、慶長5年(1600年)7月25日、会津征伐(上杉景勝の打倒)の途上にあった徳川家康は、石田三成らの挙兵の報を受けて、下野(しもつけ)小山(現在の栃木県小山市)に諸将を集め、会津征伐の延期(または中止)と反転西上(京・大坂方面への進軍)を諮った。
この会議において、豊臣恩顧の武将である福島正則が真っ先に家康支持と三成打倒を表明し、続いて山内一豊が自身の居城である遠州掛川城を家康に差し出すと切り出したとされる。このため小山評定は、東軍の結束が固まった歴史的な会議として位置づけられている。
しかし笠谷和比古氏の研究が発表されて以降、この通説に対して研究者から疑問が呈され、論争が巻き起こった。小山評定の時点では、家康や東軍諸将は、反家康の決起は石田三成・大谷吉継らに限定されていると認識していたことを、笠谷氏は明らかにした。その後、大坂城の豊臣奉行衆が三成の挙兵に同調し、秀頼を擁して家康を弾劾していることが発覚したのである。
笠谷氏は「このような事態の急変は、小山の評定における豊臣武将たちの誓約の前提を狂わせるもの」と指摘し、小山評定で東軍の結束が固まったという通説に疑問を投げかけた。
さらに小山評定が開催される前に、西上が決定していたと論じる研究も現れた。光成準治氏は、黒田長政が7月25日の評定に参加していない可能性を指摘し、徳川家康・徳川秀忠・福島正則・黒田長政による協議が7月19日に江戸で行われた可能性を提起した。
また高橋明氏は、家康が7月23日付の書状で最上義光に上杉攻撃の中止を命じていることなどから、25日の評定で上杉征伐の中止と諸将の西上が決定したとする通説を誤りであると論じた。
この論争を激化させたのが白峰旬氏の小山評定架空説である。白峰氏は、通説の論拠である福島正則宛ての家康書状の日付が後世に7月24日に改ざんされたと主張し、日付を7月19日に比定する。
さらに、7月29日大関資増宛て浅野幸長書状の解釈から、
「上方の軍事的動向に対応するために上杉討伐の延期を決めたことがわかるが、上杉討伐の延期を決めた諸将の談合がいつどこでおこなわれたのか、という点については具体的記載がない。よって、上杉討伐の延期が何日に決定したのかはわからず、小山で談合がおこなわれたのかどうかということも断定できない。また、その談合に家康が加わったのか、加わっていないのか、という点や、家康が談合に加わった場合、どのような形で加わった、という点についても言及はない。なお、諸将の談合により決定したのは上杉討伐の延期(実質的には中止)であって、諸将の西上を談合によって決定した、とは記していない点には注意する必要がある」
「浅野幸長が小山へ行った目的については記載されておらず、諸将による談合と関係するのか、関係しないのかという点は不明である」
と述べている。
加えて白峰氏は、8月5日福島正則・徳永寿昌宛て徳川家康書状などの解釈から、7月中には、福島正則は清須城に到着したと推定し、7月25日に正則が小山にいたとは考えられないと主張した。
これに対して本多隆成氏は、正則らは8月3日に小田原ないし三島辺りから家康宛の書状を出したと推定し、通説通り評定は7月25日に小山で行われ、正則は評定後の26日に西上を開始したと想定する方が無理のない日程となると論じた。
福島正則がいつ、どこにいたのかという問題については、以後も白峰・本多両氏の間で激しく批判・反論の応酬が続いたが、やや水掛け論のところがあり、「小山評定」論争の決め手にはならないと筆者は考える。なお水野伍貴氏は、福島正則宛徳川家康書状を偽文書ではないかと疑っている。
さらに本多氏は、家康と豊臣系諸将の間には主従関係がなく、重要な方針転換である西上は諸将の同意なしには不可能であったため、何らかの談合・評定があったことは確実であると主張した。
この主張に対し、白峰氏は、
「東下した諸将の西上の決定は、上杉討伐の中止(延期)と直接関係するので、上杉討伐に関する家康の軍事指揮権と解釈すべきであろう。当時の家康と豊臣系諸将との間にいわゆる主従関係はなくても、上杉討伐の決定権は家康自身にあり、諸将と協議する必要はない」
と反論している。
加えて白峰氏は、
「7月25日に小山評定がおこなわれたことが歴史的事実であったのであれば、7月25日付で諸将の間で取り決めた内容を一つ書きで列記し、軍議に参加した諸将が署判したはずである。例えば、慶長の役(朝鮮出兵)における井邑の軍議では、諸将間で取り決めた内容を一つ書きで5ケ条にして列記し、日付(9月16日)を明記して宇喜多秀家他14名の部将が連署している。このような文書(一次史料)が残されていないこと自体が、小山評定自体がフィクションであることの傍証である」
と説いた。
白峰氏は前掲浅野幸長書状についても再検討した。白峰氏によれば、同書状は『「上方之儀」について「各」(=諸将)が仕置(=処置)を相談したので、会津表への「御働」(=軍事行動=上杉討伐)は「御延引」になった』と解釈できる。「内府様」(=家康)と「申談」じたとは記されていないので、諸将による「申談」に家康は加わっていない、と白峰氏は述べる。
この解釈に対しては本多氏・藤井讓治氏が、同書状の「上方之儀各被申談」は、家康が諸将に「上方之儀」を申し談ぜられたと解釈すべきであり、家康を抜きに反転西上が相談されるとは想定しがたいと反論した。
本多氏は『諸将が一堂に会したいわゆる「小山評定」があったかどうかはともかくとして、諸将が小山に招集され、小山で何らかの談合・評定があったことは確実である』と述べている。
藤井氏は「複数の史料を突き合わせると、家康は江戸から小山までと、小山から江戸までの行軍の時期を除いて、少なくとも二五日から八月四日の直前まで小山にいたと考えられる。とすれば上杉攻めの延期と諸将の西上が決定された場所は下野小山となろう」と結論づけている。
筆者による若干の論評
ここで筆者の考えを述べておきたい。7月29日浅野幸長書状に関して、家康が諸将と「申談」じたという本多・藤井氏らの解釈は妥当だと思うが、「各申談」を、特定の場所に一堂に会しての軍議・評定と解釈するのは踏み込みすぎではないか。書状のやりとりによる意見調整を「申談」と表現する例はこの時代に散見される。
8月12日の伊達政宗宛て徳川家康書状には、豊臣系武将である福島正則・田中吉政・池田輝政・細川忠興が西上(会津征伐の中止と石田三成の打倒)を求めたと記されている。藤井氏は、この書状に基づき、福島正則らが小山にいたと推定しているが、正則らの意見上申についても、特定の場所における軍議の場での発言と解釈する必要はなく、使者・書状による意見表明と解釈する余地は残る。
そもそも同書状は、上杉征伐を中止したことに対する伊達政宗の抗議(政宗ら東北地方の諸将は家康たちの到着を前提として上杉氏に対する軍事行動を起こしていたため、上杉征伐の中止は政宗らを見捨てることを意味する)に対する弁明として出されたものであり、その記述をどこまで信用して良いかどうかは疑問である。「上杉征伐を継続するつもりだったが、諸将の反対により中止した」という家康の説明は、上杉征伐中止の責任を福島正則らに転嫁するためのものである。
大河ドラマや映画の影響もあり、武将たちは常に顔を突き合わせて議論しているように錯覚しがちだが、現実の戦国時代においては使者・書状を用いた報連相が一般的である。それぞれ軍勢を率いて進軍している諸将を同じタイミングで一つの場所に集結させるのは、当時の通信技術では極めて困難だからである。
白峰氏が指摘するように、小山評定の開催を明記した一次史料が存在しない以上、実在説の主張には慎重であるべきだろう。







