なぜ前国王は今“回想録”を出したのか:混迷するスペイン政治の現在地

民主政治を破壊しようとする政権に待ったをかけた回想録

一国の国王自らが回想録を書くということは極めて稀である。しかし、今回の出版には、それをせざるを得ない深刻な事情があった。フランコ将軍から託され、ファン・カルロス前国王はスペインを独裁制から民主化へと導き、立憲君主制を安定させるために大きな役割を果たした。

ところが今、その体制を揺るがす政権が誕生してしまった。サンチェス首相である。就任から7年、彼は王家を尊重する姿勢を欠き、スペインを共和制へと移行させ、自らが強権的な大統領となることを目指しているかのように見える。その兆候は、司法と主要メディアをコントロールしようとする動きに明確に表れている。独裁的体制を築くうえで、司法とメディアの掌握は不可欠である。

さらに、サンチェス首相は権力の延命を図るため、民主化を否定する共産主義政党と連立を組み、バスクやカタルーニャの独立を求める政党にも譲歩して支持を得ている。このような政治の積み重ねが、スペインの立憲君主制と民主政治そのものを損なう危険性をはらんでいる。

サンチェス首相による国王軽視の政治姿勢

サンチェス首相には、現国王フェリペ6世への敬意を欠く姿勢が随所で観察される。本来、国王が外遊する際には大臣が同行することが慣例だが、サンチェス政権では大臣ではなく官僚が国王を同伴している。また、最近国王夫妻が中国を訪問した際も、首相が外交の軸を米国から中国へ移そうとする意図に基づき、国王夫妻を“政治的駒”のように扱って派遣したかのように見える。

歴代首相は国王の宮殿を定期的に訪問し、政治情勢を直接報告してきた。しかしサンチェス首相はその慣例を破り、必要時に電話で済ませるのみとなった。

象徴的だったのは昨年10月、バレンシアの洪水被災地訪問である。市民から罵声と泥を浴びせられたサンチェス首相は早々に現場を退散したが、国王夫妻は市民と対話を続けた。その後、サンチェス首相は国王に「なぜ私と同じように退去しなかったのか」と激しく不満をぶつけたという。隣室で会話を聞いていた人物が、この事実を政府にコントロールされていないメディアを通じて明らかにしている。

前国王が回想録執筆を決断した政治的背景

こうした一連の動きに対する深い懸念を抱き、ファン・カルロス前国王は沈黙を破る決断をした。サンチェス政権が民主化を破壊する危険な方向へ進んでいることに対し、前国王として「警鐘を鳴らす必要性」を強く感じたのであろう。回想録は既にフランスで発売されており、スペインでも12月に書店へ並ぶ予定である。

ファン・カルロス前国王は1975年11月22日、37歳で王位に就いた。今年11月、スペインが立憲君主制へ移行して50周年を迎え、議会で記念式典が行われたが、前国王の姿はそこになかった。その後に行われたフェリペ6世一家のみの私的な祝賀には出席した。

前国王が表舞台から姿を消したのは、過去のスキャンダルが影響している。2008年、サウジアラビア国王からの1億ドルの受領を公表せず、愛人コリーナに6500万ユーロを贈与したこと、さらに象狩り旅行での事故、複数の愛人の存在などがメディアによって暴かれた。現在、前国王は中東・アブダビで生活している。

この一連のスキャンダル報道の背後には、主要メディアを掌握するサンチェス政権の影もある。最終的に前国王は、フェリペ6世の王位の安定を守るためにスペインを離れることが最善と判断した。サンチェス首相は、当然ながらこの決断に反対しなかった。

スペイン民主化を支えた前国王という要石の存在

スペインが独裁から民主化へ移行することに成功した背景には、ファン・カルロス前国王の強いリーダーシップと責任感があった。これはその時代を見てきた者であれば誰もが認める事実であり、筆者自身も強く実感している。しかし現在の多くの若者は、この歴史を知らない。

だからこそ、前国王は回想録を通じて、自らが果たした歴史的役割と、スペインの民主体制を守る重要性を伝える必要があると感じたのだろう。これはフェリペ6世、そして将来王位を継ぐレオノール王女へと体制を引き継ぐための「歴史の継承」でもある。