私のバブル戦後史(2)

1980年代後半に起こった不動産バブルは、必然的な出来事ではなかった。それは信じられないほど多くの判断の誤りが複合した競合脱線だった。その原因は当時、渦中にいた企業にも行政にも、取材した私にもわからなかったが、あえて結果論で整理してみよう。

バブルはレーガン政権の放漫財政から始まった

私が日米通商問題の取材班に入ったのは1985年の初めだった。アメリカから「製品輸入の拡大」などの要求がつきつけられたのだが、最初は「貿易摩擦」とは何のことかわからなかった。確かに日本の貿易黒字は大きかったが、それは日本の自動車や電機製品が海外で売れているからで、不公正な貿易をしているわけではなかったからだ。

しかしアメリカにとっては違った。当時はレーガン政権がいわゆるレーガノミックスを打ち出した時期だった。これはイギリスのサッチャー政権のまねで「小さな政府」の政策だったが、レーガンにはその論理がよくわからなかったので、富裕層向けの大減税とともに軍備拡張をやった。

これは小さな政府どころか莫大な財政赤字をもたらし、長期金利が上がった。しかも当時インフレを沈静化するため、FRB(連邦準備制度理事会)のボルカー議長が政策金利(FF金利)を最高20%まで上げる超高金利だったため、世界中からアメリカに資金が流入し、1ドル=250円まで上がった。これは購買力平価(PPP)をはるかに上回るレートだった。

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この財政と貿易の双子の赤字のおかげで中西部の製造業は競争力を失って不況になり、ラストベルト(さびついた工業地帯)と呼ばれるようになった。この原因はレーガン政権の放漫財政だったので、それを軌道修正すべきだったが、どこの国でも減税は容易だが歳出カットはきらわれる。

こうした国内の不満を外に向けるため、レーガン政権は日本を非難のターゲットにした。日本の工業製品の関税はほぼゼロだったが、アメリカ製品が売れないのは「不公正貿易」のためだと難癖をつけ、下院議員が東芝のラジカセを議会の前で壊すジャパン・バッシングのパフォーマンスをやった。

貿易摩擦はこのようにアメリカの国内問題を日本の「不公正貿易」にすり替えたものだったが、その最大の焦点は為替レートだった。貿易収支が為替レートで決まるというのは錯覚で、円高になった後も日本の貿易黒字は減らなかったが、当時は日本も為替介入に協力し、円高に誘導しようと考えたのだ。

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