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憲法学者・志田陽子氏と情報法学者・成原慧氏の対談を読んで、考え込んでしまった。表現の自由をめぐる構図が、根本から変わっているという指摘である。
『現代思想 2025年5月号 特集=「表現の自由」を考える』(青土社)
かつて表現の自由の「敵」は明確だった。国家権力である。検閲、発禁、逮捕。権力が表現を潰しにかかる。それに対抗して市民が声を上げる。この構図は長らく自明のものだった。
ところが現在、表現を脅かしているのは国家だけではない。SNSでの炎上、プラットフォームによるアカウント停止、そして「キャンセルカルチャー」と呼ばれる現象。成原氏の言葉を借りれば、「二つの表現の自由が対立している」のだ。
ある人の表現の自由を守ろうとすれば、別の人の表現の自由を制限することになる。批判する自由も表現の自由。批判される側の表現も自由。この対立を、従来の「国家vs市民」という図式では捉えきれない。
志田氏が提示する「鈍感フィルター」という概念が興味深い。法律は「普通の人」を基準にせざるを得ない。ペン先の尖りが怖くてたまらないという人がいても、尖ったペンそのものを法律で禁止することはできない。しかし、そのペン先を相手に突きつけて脅せば、それは恫喝になる。法はこうした「普通の人の感じ方」を基準に、あえて鈍感フィルターをかけて一般論を組み立てる。
だが問題は、社会が多様化するにつれて「普通」の基準が揺らいでいることだ。かつては気にされなかった表現が、誰かを深く傷つけていたことに気づく。その気づきは社会の進歩だ。しかし同時に、あらゆる表現が誰かを傷つける可能性があるという事実にも直面する。
ここで志田氏は「強い個人像」と「弱い個人像」という対比を持ち出す。古典的な表現の自由論は「強い個人」を想定してきた。批判を受けても受け流し、確固として活動を続けていける人間像だ。しかし現実には、精神的に傷つくことで生きる意志を失う人もいる。SNSでの誹謗中傷を苦に命を絶った木村花さんの事件は、その痛ましい例である。
筆者自身、長年コラムを書いてきて、批判には慣れているつもりだ。だが正直に言えば、それは「強い個人」だからではない。単に鈍感なだけかもしれない。あるいは、たまたま致命的な攻撃を受けなかっただけかもしれない。「強い個人像」を前提にした議論は、結局のところ、傷つきやすい人間を切り捨てる論理になりかねない。
一方で、「弱い個人」を守ることを最優先にすれば、表現の自由は際限なく狭まっていく。誰かが傷つく可能性のある表現をすべて排除すれば、何も言えなくなる。
この二律背反に、簡単な答えはない。志田氏も明快な解決策を提示しているわけではない。ただ、鋭い感受性を持つ人を「切り捨てない」ための歩み寄りと、表現の自由を「規制しすぎない」ための距離取り、その両方の折り合いを模索し続けるしかないと述べている。
プラットフォームの問題も同様だ。かつてTwitterやFacebookは、電話回線のような中立的なインフラと考えられていた。しかし巨大化した今、それらは国家権力以上の力を持ちつつある。トランプ前大統領のアカウント停止は、プラットフォームが「表現の自由の敵」にもなりうることを示した。だが同時に、野放しにすれば暴力の扇動すら許容することになる。
結局のところ、「表現の自由を守れ」という単純なスローガンでは、もう問題は解決しない。誰の、どのような表現の自由を、誰から、どのように守るのか。その具体的な文脈を抜きにして、原則論だけを振りかざしても意味がない時代になっている。
志田氏は美術大学で、将来の表現者たちに法律を教えている。かつてはもっぱら「これをやってはいけない」という外在的な知識の提供だったが、最近は「表現者としてどう社会と向き合うか」を共に考える機会が増えたという。
表現の自由を守る主体もまた、変わりつつあるのだろう。国家に対抗する市民という図式から、表現者自身が社会との関係を主体的に考えていく時代へ。それは窮屈になることではなく、表現の厚みを増すことだと、志田氏は言う。
その言葉を、筆者は信じたいと思う。
22冊の本を書いてきた。そのすべてが誰かを傷つけなかったとは言い切れない。それでも書き続けてきたのは、伝えたいことがあったからだ。これからも書く。ただし、かつてのように「表現の自由があるから」という盾だけで書くのではなく、その自由の重さを引き受けながら書く。それが、この対談から筆者が受け取った宿題である。
尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)








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