黒坂岳央です。
下記のポストが大きな反響を呼んでいる。
AIが人間の仕事を奪う話が爆増してるけど、人間はすでに仕事に人生を奪われている。週5日、1日8時間、人生の最も体力がある時期を労働に捧げ、残りで人生を楽しもうとする。AIの脅威より、この設計の異常さに先に気づく必要がある。
— 佐藤航陽(さとうかつあき) (@ka2aki86) February 26, 2026
佐藤氏が指摘する「週5日8時間という画一的な労働設計の異常さ」には、自分も同意する。
だが、このポストに寄せられた「早く労働から解放されたい」「働くことが当たり前という世界は異常だ」という多くの共感の声に対しては、まったく違う、危機感に近い感覚を抱いている。
AIがシステムとしての労働を奪った先に待っているのは、果たして我々が望む「解放」なのだろうか。生物学的、あるいは心理学的な視点から、この「労働なき世界」の妥当性を考察したい。

metamorworks/iStock
「生きていくための労働」は異常ではない
ここで区別して考える必要があるのは、“生存のための活動”と“現代の賃金労働制度”は同じではないという点だ。
制度設計の是非は議論の余地がある。しかし、生きるためにエネルギーを確保する活動そのものが不自然だ、という主張には違和感がある。
人間が労働する根本的な理由は、住居や食などの生存リソースを確保するためである。これは近代の制度以前に、生物としての不可避な営みだ。あらゆる生命体は、外部からエネルギーを取り込まなければ死に至る。野生のシャチが餌を求めて広大な海を回遊し、ライオンが群れで狩りを行うのは、生命維持のためのエネルギー支出、すなわち広義の労働である。
当該のポストが指摘する週5日8時間という労働形態は近代の設計かもしれないが、生きるために何らかの活動を強制されるという構造そのものは、地球上のほぼすべての生命体に課せられた鉄則である。
こうした話は常に「世の中には闇の支配者がいて、大多数の人間は彼らを支えるために働かされている」といった陰謀論じみた話題が多い。だが、もちろん、労働強度や報酬の非対称性という問題はある。しかし、政治家も経営者も、立場を維持するために常に競争と意思決定の渦中にいる。完全に“無活動で安泰”という層を自分は知らない(人ではなく層で)。
「自分は働かずに楽して生きています」と自慢をするインフルエンサーも、影響力を維持するために、日々必死にSNS運用という労働をしている。
労働の強度などは違うかもしれないが、まったく働かず一生生きている人や生物を自分は知らない。
AIがすべての労働を奪う世界は幸せか?
実際には地政学、エネルギー、資源などがボトルネックで実現可能性は極めて疑問だが、仮に本当にAIが地球上すべての労働を奪う世界がやってきたとしよう。だが、そんな世界は本当に幸せなのだろうか?
「AIに仕事を奪われたい」という人は「楽になること」が第一義的に思考している。だが、楽になっても人間は「人生の意味」「自分の価値」といった「労働が消えたことで生まれる次の課題」が必ず出てくる。
仕事は複雑系であり、安全欲求を買えるだけでなく、社会的なつながり、承認欲求、そして自己実現欲求などを満たすことが出来るツールとして機能している。
「いやそれは趣味やスポーツでも出来るでしょう」と指摘が来そうだ。もちろん、スポーツや研究、芸術などでも強度の高いコミットメントは可能だ。ただ、社会全体で広く参加でき、強制力と報酬構造を持ち、かつ日常的に高密度の他者接続を生む装置として、現時点で最も汎用性が高いのは「仕事」ではないか、と自分は考えている。
筆者は日々、仕事に人生が救われていると感じる。昨日、ある番組に出演するために東京に行って仕事をしてきたが、正直、非常に楽しいと感じた。出演中は仕事であることを忘れ、思うことを自由に主張させてもらい、あれこれと議論を重ねていった。あっという間に時間がすぎ、お金では買えない楽しい時間だったと感じた。
労働の代わりはない
たとえば労働がなくなったため、ディベートやディスカッションというピュアな競技があるとする。だがお金が絡まねばこれほど身近で強度高く、本気の意識的コミットメントを投下できる活動はない。自分にとっては、楽しい活動がこの世から消えてしまうという感覚しかない。
サラリーマン時代でも仕事には随分、助けられた。仕事があるから勉強を頑張れたし、人ともたくさん出会ってきた。コミュニケーション能力を磨こうと思い、色んな経験や考え方に触れることが出来たのだ。
「仕事を奪われたい」と願う人々は、その後に訪れる強烈な虚無を過小評価しているのではないか。仮にAIがすべての生産を担うようになれば、人間が介在する余地は娯楽や嗜好品に限られる。
だが、あらゆるサービスが最適化・自動化された世界では、人間同士の摩擦や、生活を賭けた真剣勝負が生み出す熱量は失われる。かつては仕事を通じて得られていた他者との深いつながり、責任を伴う社会参加の機会が、単なる暇つぶしの遊戯に成り下がってしまう。
それは「自由」というより、社会から「追放」に近い状態ではないだろうか。
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「労働は悪」と考える人は多い。だが「労働が贅沢品」という世界に変われば、おそらく既存の価値観も大きく変化するだろう。
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