守るべきは器か技術か? 日本の生産性を奪う中小企業延命という名の罠

kyonntra/iStock

町工場が潰れて何が悪いのか」という問いに対し、多くの反発が寄せられる。その大半は、「日本の技術が失われる」「ものづくりが崩壊する」という危機感に基づくものだ。しかし、この議論には致命的な混同がある。技術と企業(器)を同一視しているのである。

町工場が潰れて何が悪いのか? 日本を衰退させた“自称経営者”という病
働き方改革や最低賃金引き上げを巡り、「町工場が潰れる」「日本のものづくりが壊れる」という声が後を絶たない。だが、率直に言えば、その多くは経営の失敗を制度のせいにしているに過ぎない。そもそも、いわゆる「町工場の経営者」と呼ばれる人々の多くは、...

まず確認すべきは、技術と企業は本来、別物だという点だ。技術は人に宿り、知見として蓄積され、移転も可能である。一方、企業は単なる器であり、資本構造、ガバナンス、事業モデルの集合体にすぎない。器が歪めば、中身が優れていても機能しない。

日本の中小製造業では、この器の更新が長年行われてこなかった。技術があることを理由に、経営の質の低さが黙認され、価格決定力のない下請構造、属人的な現場運営、時間投入型の生産体制が固定化された。結果として、技術はあっても賃金は上がらず、人材も定着しないという状態が常態化した。

ここで重要なのは、「守るべきかどうか」の判断基準である。感情や歴史ではなく、経済合理性と再現性で線を引かなければならない。

守るべき技術とは何か。それは、第一に代替不能性を持つ技術である。他国・他社が容易に模倣できず、工程やノウハウが暗黙知として蓄積されているもの。第二に、人材として切り出し可能な技術である。特定企業に閉じ込められず、教育や移転によって再配置できるもの。第三に、将来需要と接続可能な技術である。過去の成功体験に閉じた技術は、保存対象ではなく博物館行きだ。

一方、捨てるべき器とは何か。それは、技術があるにもかかわらず、以下の特徴を持つ企業である。

・価格決定力を持たず、長時間労働を前提に利益を出している。
・経営判断が属人的で、次世代への権限移譲もできていない。
・外部資本や他社連携を拒み、「独立」を美徳として非効率を温存している。

これらはすべて、器としての寿命が尽きているサインである。

器を守るために技術を人質に取るべきではない。むしろ、器が壊れることで技術と人材が解放され、より生産性の高い環境へ移動する余地が生まれる。企業の退出は、技術の喪失ではなく、技術の再配置の始まりである。

政策の役割も、ここにこそある。すべての中小企業を守ることではない。技術の可視化、標準化、人材移転を支援し、器の更新を促すことだ。延命融資や一律保護は、結果として技術の価値を下げる。

守るべきは、企業ではない。技術であり、人であり、次の器に移る可能性である。この線引きを誤り続けたことが、日本の生産性停滞の根本原因だ。

町工場が潰れること自体を恐れる必要はない。恐れるべきは、潰れるべき器を守るために、技術と人材を閉じ込め続けることだ。日本が次の段階に進むためには、感情ではなく構造で線を引く覚悟が求められている。

コメント投稿をご希望の方は、投稿者様登録フォームより登録ください。

コメント