日本に行くたびに欠かさないのが明治神宮参拝。今回もさっと行ってきましたが、通常はパチパチとやってお賽銭を入れるだけ。その間、10秒か15秒。お賽銭も紙幣ではなく、小銭程度です。時折、祝詞を上げてもらうのでその時は既定の金額をお支払いしますが、それでも1万円とかそんなものです。つまり、私は継続的に神宮に参拝に行く「信者」であるもののそのお布施は実に知れている常識的なものであります。
神社やお寺では祝い事にしろ、弔事にしろ、最後にお金を包まねばなりません。「おいくらぐらいお包みしたらよいのでしょうか?」と聞いても、「お気持ちで結構です」と返ってくるので結局、あまり恥ずかしくない金額を包むわけですが、たいがいそれはちょっと多め。それでもごくたまにしかないことなのでお財布が痛むようなことはありません。
日本の旧統一教会に対して高裁が解散命令を出しました。これが最終決定であり、覆ることはありません。今後、1000億円とも言われるその資産の清算に入ります。教団側は今回の判決の前から一部の従業員に早期退職プランをオファーするなど「清算準備」は着々と進んでいたようです。

旧統一教会 世界平和統一家庭連合 NHKより
私は今回の判断を非常に嬉しく思っています。宗教という隠れ蓑を利用し、巨大な集金マシーンと化し、それを韓国の教団が吸い上げる仕組みの原点は「日本人は貧しくなっても(韓国に)尽くし続ける」という日本憎し!のスローガンに騙されてきた数多くの日本人そしてその家族をこれ以上巻き込ませないという意味であり、英断であったと思います。
人が宗教心を持つことはナチュラルであり、それに対してお布施をするのも何ら不思議ではありません。ただ、冒頭に申し上げたように一般的にお布施は社会一般通念があり、それを超える分については特別の思いがなくては果たせません。
では旧統一教会の信者さんが自主的に「特別の思い」を持っていたのかといえば、そうではなく、教団側が「思いの要求」をしてきたわけです。「この壺をぜひ買ってください、そうすれば…」というセリフです。これは宗教というより販売行為なのですが、壺の価値が5千円でもそれを100万円だと売りつけます。信者はそれでもめったに手に入らない大事な壺を私に売ってくださると喜んで払うわけです。このプロセスにおいて信者は妥当な判断能力を既に欠いているわけでモノの価値基準が分からない状態になっているのです。
寄付行為はあくまでも自主的に行うことをいいます。壺を1万円で買わせてくれと信者が言って教団側がそれで売るかといえばNOでしょう。「皆様、100万円お支払いいただいておりますので…」と言うわけです。そこにはお布施の自主性はなんら存在しなかったということになります。
日本側の教団はせっせとお金を集め、それを韓国に送金しています。その金額、年あたり100億円以上とされます。韓国側は「もっとよこせ!」と言っているとされます。
今回の日本側の判断を受け、韓国の旧統一教会の総本山も解散命令を出すか、本格的な検討に入るとみられています。李在明大統領は「社会にもたらす害悪をあまりにも長く放置した」(産経)とコメントし、日本の決定が韓国側の背中を押すことになればよいと思います。宗教団体解散については韓国には韓国の相当難しいハードルがあるようですのでスムーズにいくかどうかはわかりませんが、少なくとも大口の日本からの資金源が絶たれたことは喜ぶべきことであります。
現代社会において宗教心はどうやって養っていくのか、私にはかなり疑問があります。本来宗教は人の心に不浄が生じた場合にそれをいかに取り払うか、という方法論において信仰心を持つことでそれは解決されるとされてきたわけです。それがキリスト教でも仏教でもイスラム教でも、それこそ新興宗教でも何でもよいわけです。信仰を体系づけるのに何に乗るか、という話で英語ではvehicle (乗り物)と称するものです。ところが近年、AIにものの判断を仰ぐようになり、いわゆる宗教的アプローチに無理があるのではないかと思います。受験期に神社に行って絵馬に願い事を書くなどということを言えば「意味ない」「時間の無駄」とあっさり拒否られるのが関の山でしょう。
私に言わせれば漢方の時代から西洋医学の時代に代わった幕末の話のようなものであります。時間をかけてじっくり改善するアプローチよりも即効性のある対処療法を求めるスタンスですね。
私は以前、創価学会の話をしたときも今後、学会員は激減するだろう、と申し上げました。ある意味、日本人もドライになって来た証とも言えますが、これも時代の趨勢といえばそれまでなのでしょうね。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2026年3月5日の記事より転載させていただきました。







コメント