私のバブル戦後史(9) ゼロ金利の生んだリフレ派というカルト

1990年代のバブル崩壊の最大の失敗は、大蔵省が「公的資金」を投入しないで銀行の「自己責任」で不良債権を処理させたため、金融システムが崩壊して信用収縮が起こったことだ。その結果、物価が下がるデフレが1990年代末から始まった。

これ自体はそれほど珍しいことではなく、金融危機のあと過剰債務(投資不足)でデフレになるのはよくあることだ(2010年代の欧米でも起こった)。ところがこの結果を原因と取り違え、物価を上げれば投資不足がなくなると信じる人々が出てきた。

リフレ論争は「資金運用部ショック」から始まった

リフレーションという言葉は和製英語で、海外では通じない。これは1930年代に昔のインフレに戻すという意味で使われたらしいが、死語になっていた。それを「人為的インフレ」という意味で使い始めたのがリフレ派だが、これも日本の経済学界でも数%しかいない。

バブルのピーク時に日銀が公定歩合を上げたのは当然だったが、そのあとの対応が遅れた。株価や地価の下落が始まっても公定歩合を上げ、ピークには6%に達した。1991年1月からは公定歩合を下げたが、いったん崩壊したバブルは二度と戻らなかった。

バブル崩壊したときは、中央銀行が銀行に潤沢な資金を供給して信用収縮を防ぐべきだ。アメリカFRB議長だったベン・バーナンキは、日銀の教訓に学んで2008年のリーマンブラザーズ破綻の直後に大量の流動性を供給した。日銀も90年代に量的緩和すべきだったというリフレ派の主張は、結果論としては正しい。

この金融緩和をめぐる論争が始まったきっかけは、1998年12月の資金運用部ショックだった。これは大蔵省が国債の需給悪化を防ぐために毎月2000億円の国債を買い上げていたのをやめ、長期金利が2%を超えた事件である。

これをきっかけに債券市場が混乱したため日銀は、1999年2月に政策金利をゼロにした。翌2000年8月、速水総裁はゼロ金利を解除したが、その直後にITバブルが崩壊し、2001年2月にゼロ金利に戻した。このとき「日銀は金融緩和に消極的だ」という批判にこたえて量的緩和(誘導目標を日銀当座預金残高とする)が決まった。

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