「わからない」のまま生きていいと、言ってほしかった

kieferpix/iStock

最初に白状しておく。私はこの言葉に救われた側の人間である。だから客観的な解説なんてできない。できないが、書く。

ネガティブ・ケイパビリティ。どうにもならない問題をすぐに解決しようとせず、胸のうちに抱えておく力のことだ。

悩んでも、揺らいでも、大丈夫 がんばりすぎる心の守り方』(長谷静香 著)KADOKAWA

カウンセリングを学んでいた頃、講師がこう言った。「カウンセラーはクライアントの悩みを解決する人じゃない。一緒に抱える人だ」と。

正直、最初はピンとこなかった。抱えるだけ? それで何になるのか。でも当時の私は、自分自身が答えの出ない日々のど真ん中にいた。

わが子の行きしぶりに、どうしていいかわからなかった。休ませるべきか、背中を押すべきか。どちらを選んでも正解だと思えない。そんな宙ぶらりんの中で聞いた言葉だったからこそ、妙に引っかかって離れなかったのだと思う。

詩人が手紙に一度だけ書いた言葉

この概念の出どころが、また変わっている。19世紀イギリスの詩人ジョン・キーツが弟にあてた手紙の中で、たった一度だけ使った言葉なのだ。一度きり。論文でも著書でもない、私信の中の一語である。

キーツはシェイクスピアの凄みについてこう書いた。人が不確実さや不可解さの中にあっても、事実や理由を求めていらいらしないでいられる力——それを「消極的能力(ネガティブ・ケイパビリティ)」と呼んだのである。

要するに、わからないことをわからないまま持ち続けられる強さ。シェイクスピアがあれほどの名作を生み出せたのは、その力があったからだ、と。

詩人の直感だったのだろう。けれどこの直感は、170年後に精神医学の世界で蘇ることになる。

ビオンが臨床に持ち込み、帚木蓬生が日本語にした

イギリスの精神分析家ウィルフレッド・R・ビオンは、治療の現場でこの概念を実践した。クライアントの悩みにすぐ答えを与えようとしない。わからない状態そのものに耐えながら、相手とともにそこにとどまる。その姿勢が人の心に本当の変化をもたらす、と。

そして日本では、精神科医で作家の帚木蓬生さんが『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』という一冊を書いた。当時、この概念を日本語で正面から扱った本は、ほぼこれだけだった。私はこの本を何度も読み返した。というか、すがった。

そこには「どうすれば学校に行けるようになるか」ではなく、答えの出ない状況にどう寄り添うかが書かれていた。読みながら、涙が出たのを覚えている。

「決められない日々に立ち止まること自体が、未熟さではない」。

その一節に、どれだけ救われたか。

最近では漫画やドラマでもこの考え方を見かけるようになった。「答えを急がない」という在り方が、少しずつ広がっている。それ自体はいいことだと思う。

ただ、気になることがある。「ネガティブ・ケイパビリティ」が、なんだか便利な標語のように消費されていないか、ということだ。

この言葉は、本来、がんばりすぎて壊れかけた人が最後にたどり着く場所のようなものだと私は思っている。

「決められない自分を責めなくてもいい」。

その許可がどれほどの重みを持つか。それは、追い詰められた人にしかわからない。

※ ここでは、本編のエピソードをラノベ調のコラムに編集し直しています。

尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)

22冊目の本を出版しました。

読書を自分の武器にする技術」(WAVE出版)

 

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント