その朝、世界はいつもと変わらないように見えた。
西東京のマンションの窓からは、どんよりとした薄曇りの空が見え、遠くの中央線を走る電車の音がかすかに聞こえていた。キッチンでは妻の由美子がトーストを焼き、コーヒーの香りがリビングに漂っている。中堅物流企業で配車担当の管理職をしている私、達也(たつや)にとって、それは平易で退屈な、しかし愛すべき日常の始まりのはずだった。
「ねえ、これ……」
テレビの前でネクタイを締めていた私の耳に、由美子の少し上ずった声が届いた。彼女が指差す液晶画面の中で、朝の情報番組のキャスターが血相を変えて語りかけていた。画面の右下には、赤いテロップが点滅している。

『WTI原油先物、史上初の1バレル200ドル突破。中東情勢の決定的な悪化と主要パイプラインの爆破が引き金か』
1バレル、200ドル。
その数字の羅列を見た瞬間、私の脳裏をよぎったのは、世界経済の崩壊といったマクロな危機ではなく、会社の駐車場に並ぶ50台の大型トラックと、毎月送られてくる目玉が飛び出るような軽油の請求書だった。
100ドルを超えた時でさえ、業界は悲鳴を上げていた。150ドルに達した時は、荷主との熾烈な運賃交渉の末に、いくつもの零細運送会社が暖簾を下ろした。そして今、200ドル。それは単なる数字の上昇ではない。「限界」という名の防波堤が、完全に決壊したことを意味していた。
「ガソリン、また上がるわね……」
由美子がため息をついた。彼女の乗るコンパクトカーのガソリン代も家計を圧迫しているが、事態はそんなレベルでは済まない。
「ああ。たぶん、すべてが上がる。ガソリンだけじゃない。食べ物も、電気代も、プラスチック製品も全部だ」
私は急いでコーヒーを飲み干し、逃げるように家を出た。
駅に向かう道すがら、見慣れたガソリンスタンドの前を通りかかった。制服を着たアルバイトの青年が、脚立に乗って電光掲示板の数字を書き換えているところだった。
『レギュラー:320円 ハイオク:331円 軽油:298円』
目を疑うような数字だった。給油所の前には、パニックに陥ったドライバーたちが長蛇の列を作っており、クラクションの音が朝の空気を切り裂いていた。「まだ上がるかもしれない」という恐怖が、人々を給油口へと駆り立てているのだ。
会社に到着すると、事務所はすでに野戦病院のような有様だった。
「社長! A社から、サーチャージの再交渉は応じられないと電話が……!」
「2番線のBトラック、スタンドで給油制限を食らって満タンにできないそうです!」
「おい、明日の九州便、この燃料代じゃ走らせるだけ赤字だぞ! どうするんだ!」
飛び交う怒号と、鳴りやまない電話のベル。私はデスクに座る暇もなく、トラブルシューティングに忙殺された。
昼過ぎ、社長室に呼ばれた。創業社長である老いた彼は、すっかり生気を失い、窓の外の幹線道路をぼんやりと見つめていた。
「達也くん。うちのトラック、半分止めるぞ」
その言葉の重みに、私は息を呑んだ。
「半分、ですか。しかし、それでは契約している荷物を運びきれません。違約金が……」
「走らせれば走らせるほど、血が出るんだ。200ドルだぞ? 軽油の値段はこれからさらに上がる。運賃に転嫁しようにも、荷主だって自分たちの商品が売れなくなるから首を縦に振らない。……もう、今のビジネスモデルは破綻したんだ」
社長の言葉は、冷酷な真理だった。私たちは「安いエネルギー」を前提に、日本中に張り巡らされた毛細血管のような物流網を維持してきた。今日頼めば明日届く。送料無料。そんな魔法のようなサービスは、すべて地球が蓄えた安価な化石燃料の上に成り立っていた砂上の楼閣だったのだ。
夕方、由美子からLINEが入った。
『スーパーに行ったら、トイレットペーパーとサラダ油が全部売り切れてた。お肉も魚も、信じられないくらい高い。どうなっちゃうんだろう』
1970年代のオイルショックの記録映像で見た狂騒が、デジタル化され、より洗練された形で現代に蘇っていた。あの時は「いつか下がる」という希望があった。しかし今回は違う。採掘コストの上昇、地政学的な絶望的な断絶、そして気候変動への対応。200ドルは一時的なパニックではなく、「新たな底値」になるのではないかという恐怖が、人々の心を蝕んでいた。
夜8時。半分以上のトラックが車庫で冷たい鉄の塊となって眠っているのを確認し、私は会社を出た。
帰りの電車内は異様なほど静かだった。乗客の誰もが、うつむいてスマートフォンの画面をスクロールしている。SNSのタイムラインは、倒産、値上げ、解雇、そして先行きのない不安の言葉で埋め尽くされていることだろう。
駅から自宅へと歩く道。私はふと、丘の上から東京の夜景を見下ろした。
新宿の副都心、どこまでも続く街灯、無数に瞬くマンションの窓の明かり。光の海は、まるで何事もなかったかのように美しく輝いている。
しかし、私にはそれが、消えゆく前の線香花火の最後の輝きのように見えた。
この膨大な光を維持するために、どれほどの石油が燃やされているのだろう。明日も、明後日も、私たちはこの光を灯し続けることができるのだろうか。
マンションのドアを開けると、由美子が不安げな顔で出迎えてくれた。リビングの照明は、いつもより少し暗く落とされていた。節電のつもりだろう。
「おかえりなさい。大変だった?」
「ああ……。世界が変わる音が聞こえたよ」
私はネクタイを緩めながら、力なく笑った。
「明日から、色々と考え直さないといけない。会社のことも、生活のことも」
1バレル200ドルになった日。
それは、世界が急に滅亡した日ではない。ただ、私たちが無意識に浸かっていた「ぬるま湯」の栓が突然抜かれ、冷たく厳しい現実の風が吹き込んできた最初の日だった。
私は窓の外の暗闇を見つめた。石油の世紀の黄昏が、そこまで迫っていた。私たちはもう、後戻りすることはできない。この高価で、不自由で、新しい世界を生きていくしかないのだ。
Generated by Gemini







コメント