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筆者は南関東にあるK町内会のサイトの記述を読んで、以下の論考を書いてみました。看過する訳にはいかないと判断したのです。
第1章 導入──煙の向こうの共同体
K町内会ブログには、「薪ストーブは環境にやさしい」「炭素中立である」といった記述が並びます。これらは一見、善意に基づく地域情報の共有のように見えますが、実際には誤った科学情報の流布によって被害者をさらに追い詰める構造を内包しています。
住宅が丘陵地帯に密集するこのK地域では、薪の燃焼により微小粒子状物質(PM2.5)や多環芳香族炭化水素(PAH)が発生し、周辺住民の健康被害が起こる可能性があります注1)。しかし町内会の公式サイトは、その科学的実態を無視し、薪ストーブを「癒やし」や「持続可能性」といった感情的価値で包み込み、被害の訴えを“空気を読まない”ものとして封じ込めています。
注1)日本環境省「微小粒子状物質の健康影響評価検討会報告書」(2016年)。
第2章 誤情報の共有が生む「善意の暴力」
この町内会ブログの文章は、専門家による検証を経ていません。それにもかかわらず「薪ストーブはCO2を排出しない」「健康に悪影響はない」と断言し、読者に安心感を与える形で拡散されています。これは典型的な善意による誤情報の拡散です。
社会心理学的に見ると、このような現象は「集団同調性バイアス」と呼ばれます注2)。人々は、専門的知識よりも共同体内部の信頼を重視し、科学的根拠を軽視する傾向にあります。結果として、被害を訴える住民は「場を乱す存在」として排除される。これが、町内会における“多重加害”の第一層です。
注2)Asch, S. E. (1956). Studies of independence and conformity: A minority of one against a unanimous majority. Psychological Monographs, 70(9).
第3章 無意識の共犯──「癒やし」言説の裏側
「炎のある暮らし」「心の豊かさ」といった言葉がブログ中で繰り返されます。これは単なる情緒表現ではなく、認知的不協和の回避として機能しています。
薪ストーブの使用が他者を傷つけている可能性を認めると、自己正当化の根拠が崩れるため、人はその現実を否認し、むしろ「良い行為」として再定義します。
この心理的メカニズムは、環境社会学では「ナラティブ・ディフェンス(語りによる防衛)」として知られています。つまり「私は温厚で自然を愛しているから悪くない」「煙は昔ながらの文化だ」という語りが、無自覚な共犯関係を形成していくのです。ここに、被害の訴えを聞かない“日常的暴力”が潜みます。
第4章 情報の非対称性と沈黙の制度化
この町内会の情報発信は、一方向的であり、住民が反論できる仕組みが存在しません。会長・副会長など限られた執筆者が「代表」の名のもとに情報を恣意的に固定化し、異論を封じる構造が形成されています。
この構造は、社会学者ヨハン・ガルトゥングの提唱する構造的暴力(structural violence)に相当します注3)。暴力とは直接的な攻撃だけでなく、発言機会を奪う制度や慣習の中にも存在します。被害者が声を上げられない沈黙の場が、もっとも陰湿な暴力の形です。
注3)Galtung, J. (1969). Violence, Peace, and Peace Research. Journal of Peace Research, 6(3), 167–191.
第5章 欧米における同種事例との比較
欧米では、薪ストーブをめぐる住民対立はしばしば訴訟にまで発展しています。たとえばオーストラリアのタスマニア州では、薪煙被害に関する地域紛争が社会問題化し、州政府が「薪煙苦情専用ホットライン」を設けました注4)。
またカナダ・ブリティッシュコロンビア州では、自治体が「薪煙による健康被害を認めた」うえで、旧型ストーブの撤去を補助しています。
これらの国々でも、初期には「薪はエコ」「伝統文化」という言説が支配的でした。しかし、被害者が科学的データを示し、行政とメディアを動かすことで、ようやく“地域の沈黙”が破られました。日本の町内会における閉鎖的構造は、情報の更新を拒む文化的保守性という点で、まさに同根の問題を抱えています。
注4)Tasmanian Department of Health, Wood Heater Smoke and Health, 2019.
第6章 結語──沈黙の中の倫理
K町内会に見られる構造は、単なる誤情報ではなく、「共同体という名の安心感」がもたらす倫理的空白の問題です。誰も悪意を持たず、しかし結果として弱者を追い詰める。これが多重加害の本質です。
被害者は科学的根拠をもって訴えても、「場の空気」によって退けられる。そこでは科学よりも同調、真実よりも平穏が優先されます。しかし、真の平穏は事実の共有と誤りの訂正からしか生まれません。
小さな町内会での心無い一文が、何人もの住民の健康を損ない、小さな声を封じることがある。だからこそ、地域社会の倫理とは、声なき者に耳を傾ける勇気に他なりません。
【参考文献】
- 環境省(2016)『微小粒子状物質(PM2.5)の健康影響評価検討会報告書』
- Asch, S. E. (1956). Studies of independence and conformity. Psychological Monographs, 70(9).
- Galtung, J. (1969). Violence, Peace, and Peace Research. Journal of Peace Research, 6(3).
- Tasmanian Department of Health (2019). Wood Heater Smoke and Health.
- British Columbia Ministry of Environment (2021). Wood Smoke Education and Reduction Program.
編集部より:この記事は青山翠氏のブログ「湘南に、きれいな青空を返して!」2026年1月6日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は「湘南に、きれいな青空を返して!」をご覧ください。







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