「嫌われる勇気」が生み出す迷惑な人たち

ベストセラー『嫌われる勇気』の影響で、「他人の顔色なんて見るな」「空気を読む必要はない」という主張をSNSでもビジネス書でも頻繁に見かけるようになった。

「嫌われる勇気」の誤読

確かにアドラー心理学の「課題の分離」は強力な考え方だ。他人が自分をどう評価するかは他人の課題であり、自分にはコントロールできない。だから自分の課題に集中せよ。この原則自体は正しい。

だが問題は、この言葉が独り歩きしていることだ。「嫌われる勇気」の本質は「顔色を無視する」ことではない。「自分の課題に誠実に取り組んだ結果として、嫌われることがあってもそれを受け入れる」ことだ。つまり、まず自分の課題への集中が先にあり、嫌われることの受容はその帰結にすぎない。

ところが現実には、この順番を完全に無視している人が目立つ。約束を破る。努力しない。配慮もしない。それでいて周囲から距離を置かれると「嫌われる勇気を持っているから」と胸を張る。SNSでもビジネスの現場でも、こうした人を見かけた経験がある人は少なくないだろう。

はっきり言えば、これは勇気ではない。アドラー心理学の都合のいい部分だけをつまみ食いした結果、ただ迷惑なだけの人になっているのだ。本稿では、なぜこの誤解が起きるのか、そしてそれが具体的にどんな形で現れるのかを整理したい。

誤読が広がる理由

「嫌われる勇気」の誤読がこれほど広がる背景には、時代の空気がある。

SNSは「ありのままの自分を肯定せよ」というメッセージで溢れている。自己肯定それ自体は悪いことではない。だが、そこに「努力しなくても今の自分でいい」という解釈が重なると話が変わる。自分を肯定することと、自分の課題から目を逸らすことはまったく別のことだが、この二つが混同されやすい時代なのだ。

さらに、「自由」が「責任」より先に語られる風潮がある。好きなことだけして生きる。嫌なことはやらなくていい。こうしたメッセージは耳に心地よいが、そこには常に「その結果を引き受ける」という後半が省略されている。自由には必ず帰結が伴う。だが帰結の部分は語られず、自由の部分だけが消費される。

「嫌われる勇気」も同じ構造で消費されている。「嫌われても気にしない」という心地よい部分だけが切り取られ、「自分の課題に向き合う」という負荷のかかる前提が脱落する。結果として、怠惰のための免罪符として機能してしまうのだ。

免罪符にする人たち

では、免罪符としての使い方とは具体的にどういうものか。職場でよく見かける三つのパターンを挙げたい。

一つ目は、協調性の欠如を「自立」と履き違えるケースだ。チームプロジェクトで進捗共有や相談を一切行わない。本人は「いちいち報告するのは他人の顔色を伺うことだ。自分の仕事は自分で完結させるのがアドラー流だ」と言う。

だが、組織においてプロジェクトを円滑に進めるためのコミュニケーションは、給与を得るプロフェッショナルとしての「自分の課題」だ。共有を怠り周囲にリカバリーの負担を強いるのは、課題の分離ではなく単なる無責任である。

二つ目は、無礼な言動を「本音」と履き違えるケースだ。相手への敬意を欠いた攻撃的な物言いを繰り返しながら、「嫌われることを恐れず本音を言っているだけだ。相手がどう感じるかは相手の課題だ」と開き直る。

だがアドラー心理学の土台には「他者を仲間と見なす共同体感覚」と「尊敬」がある。言葉を選び、相手に伝わる努力をすることは紛れもなく「自分の課題」だ。不作法を「勇気」という言葉でコーティングしているだけであり、その実態はハラスメントの正当化にすぎない。

三つ目は、締切破りを「マイペース」と履き違えるケースだ。自分の納得感や都合を優先し、合意した納期を平然と無視する。「納期に追われて顔色を伺う生き方はしたくない。自分に嘘をつかないのが自由だ」と言うが、契約や約束を守ることは社会的な共同体で生きるうえでの最低限の課題だ。能力不足による遅延を「精神的な自由」とラベルを貼り替えているだけであり、信頼失墜という自業自得な結末を招いているにすぎない。

課題の分離ではなく、課題の放棄

三つに共通するのは、「自分の課題」の定義を都合よく狭めていることだ。自分が楽になる部分だけを「自分の課題」に含め、負荷のかかる部分を「他人の課題」に押しやっている。これは課題の分離ではなく、課題の放棄だ。

課題の放棄を「勇気」と呼び替えても、現実は変わらない。では、本来の「嫌われる勇気」とは何か。次稿で整理したい。

尾藤克之(コラムニスト、著述家、作家)

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コメント

  1. 岡本マヤ より:

    「ひとりひとり顔も違うように考え方も感じ方も違う。」

    集団や組織の中で自分とはやってきた事が違う、育った環境が違う人もいる。事を思うと
    どこでもやっていけますね。