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(前回:変革主体論③:富はどこで生まれ誰に渡るのか―貿易と超過利潤の構造)
本連載は現代の階級構造を多角的に分析してきた。第1〜3回で対立の不可視化、搾取の多層化、富の創出と分配の断絶を解明した。
最終回となる本稿では、生存限界にあるアンダークラスと、精神的疎外に苦しむ新中間階級という「錯綜する搾取」の構図を浮き彫りにする。部分的な改良に終始し「全体像」を失った現代政治に対し、真の変革を担う主体はどこに存在するのか。知性による階級を超えた連帯の可能性と変革主体のゆくえを展望する。
錯綜する搾取
“アンダークラス”の給与はC点より左にある。橋本の調査でも平均年収が200万円程だから、ここから時間給を推定すればほぼ最低賃金である。

従業員30人未満の小企業では最低賃金を下回っている労働者の比率もかなり高い。図1がそれを示している。しかも、その比率はコロナ禍での変動を除けば傾向的に上昇している。

図1 最低賃金未満比率の推移(従業者30人未満事業所)<製造業等は100人未満>)
出典:大橋一平、「最低賃金引上げに伴う中小企業の平均賃金への直接的な影響」(2025年、『信金中金月報』第24巻第12号、信金中央金庫)
東京のような大都市での生活費項目で大きな比重を占めるのは住居費だが、これは食費などと違って切り詰められない。全収入からこれを差し引くと一人分の生活費が残るかどうかとなり、とても労働力の再生産(ファミリーの生活費)はできない。次世代はつくれない。だから、恒久的ではなく過渡的階級なのである。

図2 橋本の階級構造
出典:橋本健二著、『新しい階級社会 最新データが明かす<格差拡大の果て>』、p.8(2025年、講談社)
低賃金が支配的な小企業では、アンダークラスから剰余価値(Ⅰ)および剰余価値(Ⅱ)を得ていることになるが、それは見せかけである※1)。大企業は小企業から合法的に横取りしている。合法といったのは取引関係を通じて行われているからである。ともかく、アンダークラスの破滅的な状況が持続するのはアンダークラスに誰かが“援助”しているからである。これが過渡期を長引かせている。
その誰とは誰か。考えられるのは次の二者だ。一番目、最もありそうなのが親の世代である※2)。援助は金銭だけでなく同居させるという型の住居の提供、食事の提供などの現物供与がある。多くの研究者がこの事態を観察している。
※1)剰余価値Ⅰと剰余価値Ⅱに関する考察については、2026年4月3日「変革主体論②:多層化する搾取と階級分裂の構造」を参照。
※2)「就職氷河期世代は親世代から(おそらく年金も主要な財源になっているはずの)経済的支援を少なからず受けており…しかし彼らは2025年現在、30歳代後半から50歳代前半だが、これまで依存していた家庭内移転はいずれ先細る。」(小塩隆士、「所得格差・貧困の近年の動向」p.8、2025年、『季刊 個人金融』)。
二番目が公的支援である。最近の統計では若い世代の生活保護申請が増加している。厚生労働省の「被保護者調査」によると、生活保護受給者が全人口に占める比率(保護率)は、1995年には0.70%だったが、その後徐々に上昇し、近年では頭打ち傾向が見られるものの、2023年には1.62%にまで高まっている。生活保護の受給世帯数も同時期に60万世帯から165万世帯へと大きく増加している。生活保護の受給者になるという意味での貧困リスクは、この四半世紀で倍以上になっている(小塩、p.8)。
アンダークラスは新しい階級だから“代々”ということはなく、親の世代はアンダークラスとは異なる各階級に拡散して存在している。資本家階級からいきなりというのは、まさに“王様と乞食”のゲームのようだが、さすがに少なく、多くはすぐ上の労働者階級、欄外の旧中間階級からだろう。
搾取は寄生だが、アンダークラスの場合、それが二世代に亘り、しかも階級をまたいでいる。
旧中間階級からの搾取については簡単に済ませる。日本のような先進工業国では農業が全体として搾取の対象になっている。このことは都市近郊で富農が散見される現在でも事実である。市場では工業製品に対し農産物は一般的に不利であり、さらに海外からの輸入がこの傾向を強化している。
中小企業では下請関係は解消していない。様々な法律が制定され状況は改善されつつあるが※3)、中小企業の数が減りつつあり、改善が不十分であることを示している。特に中小商店は激減しており、シャッター商店街が地方都市の中心地の見慣れた風景になっている。
ここでの搾取関係は対労働者のときのように直接的ではなく市場を、あるいは経済構造を通して展開している。それだけに見えにくい。
※3)“下請”の法律上の消滅については、2025年4月26日「紙の手形がなくなる!その意味を探る」を参照。
正規労働者についても簡単に済ませる。労働組合の組織率は14%台であり、もはや、連帯とか団結とかを云々する水準ではない。多くが未加入である。正規労働者であるが組合員でない人が大多数というのは問題である。組合員にならない理由としては、メリットが見出せないが一番である。
メリットとして期待されているのは賃上げだが、この30年間日本では進んでいない。それもあって労働分配率は下がり続け、国際比較をするとのような惨めな状況になっている(図3、図4)。

図3 1991年-2025年における名目賃金と実質賃金の推移(従業員5人以上の事業所、対前年比。単位:%)
出典:厚生労働省「毎月勤労統計調査」をもとに筆者作成

図4 先進国労働分配率
出典:鶴光太郎、「労働分配率低下の“真犯人”」(2017年、独立行政法人経済産業研究所。参照2026年4月25日)
だから、組織・正規労働者の状況が良いのかといえば、日本の場合はそうではないのだ。デフレの30年の影響を大きく受けたのはこの階級で、賃金がほとんど上がらなかった。直接的に因果を説明するには材料不足だが、大企業の高利潤のかなりの部分はこの階級の賃金が上昇しなかったことで説明できる。
アメリカでも2000年以降労働分配率は下がっているが、その説明は日本とは違う。超高収益企業、つまりGAFAMのような企業では高給を支払っても、なお巨額な利益が会社に残るからである。日本でも企業の内部留保は2024年末で636兆円と過去最高だ。この数字は、諸富徹がその著書『資本主義の新しい形』(2020年、岩波書店)で暴露した額(2017年で446兆円)をはるかに上回っている。
では、なぜ日本では状況が長期に放置されたのか。ひとつは先に述べたアンダークラスの存在が“足を引っ張った”だが、それに加えて見逃せないのは労働者階級そのものの内部に潜む、ある問題である。
弱点
給料がC点以下というのは他から押し付けられたのだが、アンダークラスには内在的な弱点もある。それは勤勉性の低下である。ここでは労働者個々人の批判をしているのではなく社会的・一般的な状況を述べている。
資本主義が成功したのは産業革命があったから(つまり機械の発明と大量の労働者の出現)というのが定説であるが、ヤン・ド・フリース(Jan de Vries)はもうひとつ加えた※4)。
※4)ヤン・ド・フリース著、吉田敦/東風谷太一訳、『勤勉革命―資本主義を生んだ17世紀の消費行動』(2021年、筑摩書房)
それは労働者に勤勉であることを善とする倫理が備わっていたことだ。それは資本主義以前の職場と家庭の中で培われていた。
もうひとつ、職場には親方・マスター、家庭には家長という存在があって、それが現代の経営者に代わって働き方を指示し、働く現場の組織化を進めていた。家庭内での消費の計画化も行われ、それによって浪費が避けられたというのである。家族が大人数である場合は、誰が家庭内で働き、誰が外に出るかを、つまり家庭内分業体制を家長が決めていた。こうした歴史的下準備があり、そこに産業革命が加わり資本主義は生成発展したというのである。
労働者が“働く”ということの階級超越的な意義を理解していなければ、資本家は雇用の後に教えなければならないが(現代風にいえば社内研修)、それはコストなのだ。低成長の時代には高収益の大企業でもない限り、そうした費用はかけられない。知識と経験があり、そして労働現場の秩序を守れる人を求めた結果、中途採用が多くなる(図5)。

図5 採用計画の状況
出典:2026年4月28日、日本経済新聞
“即戦力”というよく聞く言葉は資本家が人財(これもよく聞く)養成のコストを払わない“手抜き”の現われでもある。
アンダークラスの労働者に目を向ければ、結果的にではあるが、教育を受ける機会が学校でも、そして家庭内でも、さらに就職した企業内でもなかったのである。コミュニケーションをうまくとれない、あるいは対面で人と話すことができない状況に放置されている。ここから他を思いやる感性が育つと考えるのは無理があるし、まして同じ状況の人々との連帯感が生まれるのはさらに難しい。
アンダークラスでは労働の生産性が下がっている。つまり労働の質が下がっている。旧ソ連の労働を研究している人々は“労働態度”という言葉を使う(奥林康司、『旧ソ連の労働』、2005年、中央経済グループパブリッシング)。
資本主義を擁護する人々は、だから低賃金なのだと主張するが、現代の低賃金が等価交換だという資本家側の主張にどう反論するかは労働者の側に立つ経済学の大きな課題である。
外国貿易もイノベーションも頭打ちだから組織労働者にとってもC点の右移動は望み薄である。高収益企業だけに高給の労働者層が生じ、それが新中間階級の中核を形成する。これに土地・株式などの資産価格の上昇から生まれる“成金”型の一群が加わる。
正規労働者から新中間階級に登れるのは少数であり、成長が限界に達した資本主義では特にそうだ。むしろ逆に下方への転落の可能性は高まっている。
労働者のコアであるべき正規労働者(B-2)が縮減の一途であることは、もはや問題が経済分野だけにあるのではなく社会の問題あることを示している。
婦人・パート
アンダークラスと似た性質を持つ。受け取る給料がC点を満たさなくても生活が持続できるのは、どこかに補助者(場合によっては逆)がいるからである。その誰かは配偶者であるか、それがいない場合は親族であろう。パート賃金+補助者=C点が成立している。前項(パート賃金)が上昇する見込みは薄いから、パート生活から脱出できるかどうかは後項(補助者)次第になる。
もちろん、賃金は自分のためにだけ使うという麗(うるわ)しいケースもある。その場合、誰かが生活費を払っているのである。これも搾取が直列しているケースだ。
要約していえば、資本家階級はアンダークラスとパート労働者の多くにC点以下の賃金しか払わず、剰余価値Ⅱを得ている。先に述べたように多くの場合は、小企業を介してそれが行われている。賃金の不足分を正規労働者あるいは新・旧の中間階級に間接的に負担させているのである。
旧中間階級
旧中間階級の主要な構成要素は小企業、独立自営業と農家である。先進国では傾向的に双方の数が減っている。だから、関心の中心はここから出た人々がどこに移動したかである。農村から都市という場所の移動に加えて他の階級への移動である。
新中間階級
新中間階級は旧中間階級とは対照的である。まず新しく、そして先進国ではその数を増やしている。さらに構成要素をみると雑多である。
資本主義の発展に伴う土地活用の拡大により地代収入が増加する。だから、地主の現代版があるし、金融資産の運用と膨張による“資産成金”もいる。たいていは副業としての地主や金利生活者である。つまり旧中間階級からの横滑りだが、それは没落を免れたラッキーな少数である。
新中間階級のコアは、労働者から上方に移動した人々である。スウィージー(Paul Marlor Sweezy)やヒルファディング(Rudolf Hilferding)、そしてアメリカの社会学者ライト・ミルズ(Charles Wright Mills)が、ホワイトカラーやサラリーマンという言葉で描こうとした人々である(「変革主体論①:「墓掘り人」なき階級社会と対立なき時代の変革論」を参照)。
この人々にはいくつか特徴がある。まずは生産手段の所有者か非所有者かというと点では、明らかに“非所有者”である。後に株式制度が普及して、彼らが株主になるということはあるが、形態規定として非所有者である。
次に労働者としては高給であり職位も高い。取締役に近いところにおり、経営者補佐でもあり、時には代理になる立場にある。このことと大いに関係があるが、高学歴であり多くの場合は労働者が手にすることが難しい資格等を持っている。
彼らは労働者であるが熟練した高級労働をするから、その復元にもそれなりのものを要する。普通の労働者よりも高いところに彼らのC点があるのは確かだ。
彼らの労働はその質の高さからして、先に述べた超過利潤の実現に貢献する。問題は、ここで生まれた剰余価値が彼らの給与に反映するかどうかだ。
また、彼らが長時間働く人であることは多くの観察が証明している。質が高く(それが保たれているのは彼らの内部競争のためである。つまり連帯は生まれにくい)、長時間働くことから賃金はそれだけ高く、会社にも多くの剰余価値をもたらす。資本の繁栄と労働者の繫栄はマルクス主義から言えば二律背反だが、ここでは部分的に両立する。だから、新中間階級の存在を一時的な現象とし、ついには否定するか、資本家の完全な別動隊と規定したのである。しかし、その後の展開はこうした見解を否定した。
新中間階級は次の各層から構成される。
① 旧中間階級からの横滑り
② 正規労働者からの上昇組
そして、本稿では触れなかったが次のふたつ。
③ 資格を持った独立自営業者(医師、弁護士、会計士など)
④ 資本家階級からの引退組。経営者ではないが相当の資産を持ち、そこからの収益が主な収入である人々。
本稿が念頭においているのは②である。数としては一番多いのである。
小括
新中間階級は生産手段を所有していない雇われた人々である。だから、彼らも被搾取者であるが、彼らのC点は高利潤からの恩恵で高い。つまり高給であり、かつてのプロレタリアートのように“空腹”による反抗は生じえない。むしろ安定した現状を守ろうとするから政治的には資本家階級に取り込まれ易い。彼らは資本家よりもずっと数が多いから、労働者階級にしてみれば厄介な相手になる。
マルクス主義は彼らを“当面の敵”とみなし、買収された階層としたのである。しかし、買収の事実は一般的ものではなかった。高給をもらったのであるが、それは等価交換プラスαであり買収ではなかった。
インテリ・精神労働
では、新中間階級は変革の列に加わらないのか? その可能性はないのか?
すぐ前に述べたように“空腹”という動機は彼らにはないが可能性、そして必然性はある。
彼らの労働は肉体労働ではなく精神労働である。資本主義が発展しサービス業が拡大するとともに肉体労働は減ってくる。この傾向は新中間階級に限ったことではないが、ここでの精神労働化は顕著になる。それは彼らの多くが高学歴であり、昔風の表現で“インテリゲンチャ”だからだ。
知的労働者の抱える主要な問題のひとつは“労働疎外”である※5)。疎外という問題はもともと労働現場から発生した。それは自らの労働によって生み出された生産物が商品になり自分のものではない、簡単に言えば生産物からの疎外である。各労働者は生産システムの歯車の一部にすぎないため、全体が見えず、また他の歯車との関連も見えない。IT産業のソフト製造部門では、自分の役割が全体とどう関係しているのかわからないという。分業の進みすぎという問題である
。“何のために”ということが判る仕事こそやり甲斐があるのだが、多くの精神労働にはそれが欠けている。釈然としないまま労働時間は延々と続く。新中間階級に自殺が多いのはこのためである※6)。
※5)ライト・ミルズは次のように述べている。
「人々の身についた徳であった慇懃さや、親切が、ホワイト・カラーにおいては、人間性から切りはなされて、単なる形式的な生活手段の一つとなってしまった。こうして、彼は、生産物からだけでなく、ついに自我からも疎外されてしまう」
C.ライト・ミルズ著、杉正孝訳、『ホワイト・カラー 改訂:中流階級の生活探究』p.12(1971年、東京創元社)
※6)過労死に関する本を数多く出版している川人博は次のような表を掲げている。

表1 職種別労災認定件数(2012年度)
注1)職種については、「日本標準職業分類」により分類している
注2)「その他の職種(上記以外の職種)」に分類されているのは、保安職業従事者、農林漁業従事者などである
出典:川人博、『過労自殺』p.128(2014年、岩波新書)
上から二つは専門職、管理職であり、事務従事者はホワイトカラーである。彼らには多くの預金があっても、それを使う時間と人生の希望が少ないのである。
ひとつの疑問が湧いてくる。疎外されている状況が行動を誘発するのか?しかし、それに答えるには多くの観察と新中間階級についての分析の深化が必要だ。
ここではもうひとつの問題について述べよう。
指導者
それは労働運動・変革運動の指導者の必要性である。変革の歴史を見れば、明らかな事のひとつは指導者がいたことである。
黙って座席にじっとしていれば、列車はやがて“革命”という駅に到着するのではない。その列車を走らせる運転手が必要であり、その多くはインテリであった。そして中産階級以上の出身者が多かった。さらに労働者にも要求される水準がある。変革の理論は決して平易ではなく、それを学んで自らの行動指針にするには相応の知性が必要だ。
マルクス(Karl Marx)は『資本論』の献辞を労働者出身のウィルヘルム・ヴォルフ(Wilhelm Wolff)に向け、レーニンは『帝国主義論』に“平易な解説”という副題をつけたが、これらを理解するにはある程度の学習が必要である。
新中間階級から変革の指導者が出現することが多いと予想される。それは彼らの自己実現であり、脱疎外の方法でもある。そして、このことが両階級を結びつける。知性は特定の階級のものではなく全人類の普遍的な財産なのだから。
「ホワイトカラー労働者の文化の中に、模倣的で体制順応的な多数派とは異なる革新的な要素を見出す」
ジュフリー・クロシック著、島浩二訳者代表、『イギリス下層中間階級の社会史』p.9(1990年、法律文化社)
新中間階級という分類はあまりに広いので、引用したような少し前の研究に学んで上層と下層に分けることも研究上有効だと思う。変革主体の抽出も可能になる。
総選挙
昨年の日本の総選挙の結果をみて思うことがある。自由民主党の大勝、そして野党の壊滅的敗北。後者はまさに消滅に向っている。
資本主義にはあれこれ不具合があるから、それを修正、調整していく。いわゆる改良主義だが、昨年の総選挙ではほとんどすべての政党がこれで一致していた。しかし、改良主義でいくなら、自由民主党にかなわない。この政党の背後には日本の状況を調査し、多くの情報を持つ官僚群が控えている。それは日本の最も優秀な頭脳集団である。何をどう改良するかに関してはプロなのである。
どこかの政党が政策アイデアを出しても勝負にはならない。たまたま良いものであればたちまち取り込まれてしまう。こういう状況では並べられた選挙用の政策で実現性がありそうなものは自由民主党のものだけになる。国民はこれまでの経験でそれを知っており、今回は殊にそう見えたのである。
ただし、自民党・官僚体制にも弱点がある。彼らはあまりにもピース・ミール(部分)に分かれすぎている。厚生労働行政に関してはこう、文部・教育行政、建設…各分野でベストであっても全体ではない。つまり日本の資本主義体制をどうするという全体像がないのである。
自由民主党はポピュリズムも取り込んだ改良主義だから全体像は不要である。ひとつひとつの政策で点数を稼げばよい。しかしながら、これに対決しようとする野党は、右翼・反動でない限り未来への全体像を、たとえ輪郭でもよいから示さねばならない。それでこそ、国民に選択肢を示したことになる。
補論:「変革主体論③:富はどこで生まれ誰に渡るのか―貿易と超過利潤の構造」への補足
リカードの比較生産費説は、自由貿易を支持する理論として政策的にも展開した。証券仲買人として成功した彼はなによりもビジネスマンであった。一財を成した後、あるきっかけで経済学に関心を持つことになる。
「1979年、彼は妻の病気保養のためにローマ時代からの著名な湯治場バースに滞在したが、そこでたまたま貸本屋に出かけて『国富論』を手にし、それを読んで以来、経済学の研究に興味を持つようになった。」
リカードウ著、羽鳥卓也・吉澤芳樹訳、『経済学および課税の原理』(1987年、岩波書店。以下、「原理」。引用は巻末の解説から引用)
比較生産費の展開は、「原理」第7章の外国貿易論にある。“展開”といったがそれは簡潔に書かれている。サラサラとスケッチ風に書かれている。彼の用いたモデルは次のようであった。
| イギリス | ポルトガル | |
| 羅紗(ラシャ) | 100人 | 90人 |
| ぶどう酒 | 120人 | 80人 |
数字は羅紗とぶどう酒という二種類の商品を生産するのに要する労働者の人数である。ポルトガルの方がどちらの商品についても少ない人数で生産できる。しかし、ポルトガルはぶどう酒、イギリスは羅紗の生産に特化(国内のすべての労働者を投入)し、しかる後に両国間の貿易によって交換する方がどちらの国にも有利(得られる生産物が多くなる)である。
もし、イギリスとポルトガルではなく、同一国内の隣接した工場(AとB)だったら、労働者は生産性の高いBの方に移動して働けばよいのだが、国際間では労働力は移動できないから、それぞれ特化した商品を生産し、必要な分だけ交換するのである。
一見シンプルな説明であり、数学的にも、また図形を用いても証明されるから、強い影響力を持った。その象徴はイギリスにおける穀物法(1815年制定)の廃止(1846年)である。これによって先進国で農業を保護することが当たり前でなくなったのである。
お互いの得になる!これは説得力をもった。俗な言い方をすれば“得意技に特化せよ”“得意を磨け”だ。しかし、一定の年月が経過するなかで、この強力な理論に事実からの不都合が見出された。
先進国と途上国としよう。先進国が得意とするものは工業製品、途上国は農業製品である。自由貿易を続けていけば、工業国はいつまでも工業国、農業国はいつまでも農業国ということにならないか。
経済学には経済発展論という分野があり、そこでの常識は国を発展させたいならば、“工業化を目指すべし”である。世界史を眺めると、先進国はおしなべて工業国であり(現代でいえばIT先進国)、途上国は農業国、せいぜい軽工業国である。
途上国から声があがる。農業国にとどまれというのか!と。自由貿易論というのは先進国がいつまでも先進国であり続けようとする勝手な理論である。まだ弱小な自国の工業を保護し守るべし。こうして保護貿易論が再登場する。
自由貿易論がどこかおかしいということに気がついて、それに反対する理論を唱えた学者がいた。その代表者がドイツ歴史学派のF.リスト(Friedrich List)である。しかし、その紹介は他に任せる。
ここで紹介したいのは自由貿易論、つまりリカードが示したモデルの中に隠された不平等があることに気がついた日本の学者である※7)。
※7)村岡俊三著、『マルクス世界市場論-マルクス「後半の体系」の研究』(1976年、新評論)
80人=100人ということは、100人の国の外国為替相場が安いのである。
円安で輸出が便利だとか、外国人観光客が多いとかで喜んでいるが、ある期間以上にそれが続くということは為替の強い国に搾取されているのかもしれないのである。
この発見の背景は、日本だけで国際価値論の考察が進んでいたことだ。価値法制が貫徹するのは、世界を一国とみなした場合であり、それが『資本論』の想定である。マルクスは世界市場を論ずる際にこの想定を外した。つまり資本や労働の移動制限がある場合には価値法制が修正されると『資本論』の第一巻で断り書きを付している。
では、どのような修正が施されるのか、それをマルクスが語っていないことから、国際価値論争が展開した。詳しいことはここでは避けて要点を述べれば次のようになる。
強度のある労働は倍化されて表現される。つまりAさんの労働は高級労働なので1.5倍というように。しかし、これは個別の労働について成立する。
世界市場、つまり二国間では、個別でなく全体的に労働が比較される。つまりA国の労働1人分は、B国の労働の1.5人分というように、労働の移動が自由ならBからAに動いてしまうため、この関係が続かないが、二国間ではこれが固定する。
リカードの設例に以上を当てはめてみる。世界市場では金だけが貨幣だ。この金で各国の労働を計測してみる。イギリスの労働100人とポルトガルの80人がどちらも金1グラムとおいてみる。先ほどの例は次のようになる。
| イギリス | ポルトガル | |
| 羅紗(ラシャ) | 1グラム | 1.1グラム |
| ぶどう酒 | 1.2グラム | 1グラム |
不等式をつけると、羅紗についてはイギリス < ポルトガルとなり、つまりイギリスが安価となる。ぶどう酒についてはイギリス>ポルトガルとなり、ポルトガルが安価になる。
設定をそのまま眺めれば、どちらも先進国のポルトガルが有利だが、100人=80人=金1グラムという秘められた式を導入するとそうではなくなる。比較優位が金という世界貨幣の大小ではっきり示される。
両国の利益だということで貿易を続けると、この100人=80人が維持される。それは不平等が維持されていることになる。だから、貿易は両国に利益だが、その恩恵の分量が違うのである。
つまり貿易によって、ポルトガルは羅紗を自国で生産すれば金1.1グラムなのに1グラム、イギリスはぶどう酒を自国で生産すれば1.2グラムなのに1グラムで済むのである。実はここに100=80という国内では成立しない“不平等”が入り込んでいる。
それは長期的には効果を現す。貿易の利益は双方にあるが、先進国の方がより得をしている。







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