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「耳順」を拝借した男
松永安左エ門。
明治から昭和を駆け抜け、「電力王」とも「電力の鬼」とも呼ばれた実業家である。「王」や「鬼」という異名には、その人物を実像以上に大きな存在として語ろうとする力学が働いている。

松永安左エ門(1953年頃)
Wikipediaより
戦後、国家管理下にあった電力事業を民営化し、全国を9つの地域に分けて独占的に電気を供給する「九電力体制」を設計し、現在の電力供給の骨格を築いた人物だ。そのとき生まれた1社が、中部電力である。
地域独占・中部電力は、かつて松永が率いた東邦電力の地盤を受け継いでいる。松永自身は中電の要職には就いていないが、東邦電力の1期生で、松永の薫陶を受けた井上五郎が中部電力の初代社長に就いた。また、第5代社長の松永亀三郎は安左エ門の甥である。
松永安左エ門は茶人としても知られ、晩年に「耳庵(じあん)」という号を用いた。出典は『論語』為政篇の一節、「六十にして耳順(みみしたが)う」。歳を重ね、人の言葉に逆らわず、素直に聞き入れられるようになった、という孔子の述懐である。耳の痛い忠告にも、静かに耳を傾ける。それが「耳順」の境地だ。
2026年1月、その耳庵が植えた樹の末裔は、見事なまでに「耳を塞いだ」末の不祥事を露呈させた。中部電力の浜岡原発データ不正事件である。
何が起きたのか
中部電力は浜岡原発(静岡県御前崎市)の再稼働を目指し、原子力規制委員会の安全審査を受けていた。その審査の根幹にあるのが「基準地震動」——その原発が想定すべき最大の揺れ——の評価である。これを小さく見積もれば、必要な耐震対策のハードルは下がる。
中部電力は、この地震動の評価で、原子力規制委員会に説明していた手法とは異なる方法を使っていた。先に「結論となる波」を都合よく決めておき、その波が平均値に最も近く見えるように、残りの計算データを逆算で組み立てていた、とされる。これを「不正」ではなく、「捏造、ないしは改ざん」だと断じる筋もある。
林欣吾社長は、2026年1月16日に電気事業連合会の会長を引責辞任した。
当初、中部電力は2018年ごろ以降の操作として説明していた。だが2026年3月31日に同社が規制委と経済産業省へ提出した報告書では、不正は遅くとも2012年から、累計で100件以上にわたって続いていたことが確認された。福島第一原子力発電所事故の翌年から始まっていたことになる。これには驚きを禁じ得ない。原子力規制委員会の山中伸介委員長は、それが事実なら事業者として失格だという趣旨を述べた。
わたしは、3.11直後から津波対策が更新されるたびに現地を視察に訪れていたので、この事態を知るに至って極めて残念な思いがする。
規制委員会は審査を停止し、委員長は「安全確保という最大の責任を、自ら放棄した前代未聞の事案」と厳しく批判した。原発から31km圏の周辺市町の首長アンケートでは、約8割が中部電力への信頼が「損なわれた」と回答した。再稼働の見通しは白紙に戻された。
しかし、この事件を1つの会社の「うっかり」や「気の緩み」として片づけると、本質を見失う。問題は、もっと根が深いところ——耳庵が植えた構造そのものにある。
「耳の痛い声」は、どこで止まったのか
注目すべきは、不正が外から暴かれるまでの経緯だ。報告書によれば、捏造は原子力土建部の内部で行われ、それを問題視する指摘が社内で複数回にわたって繰り返されていた。だが、その耳の痛い声は、ついに改められることがなかった。つまり、社内には「自浄作用」がまったく働かなかったのである——このことが発する負のインパクトは凄まじい。
発覚のきっかけは、2025年2月に原子力施設安全情報申告制度に基づいて原子力規制庁へ寄せられた、1本の申告だった。これを受けて規制庁は同年5月から中部電力との面談を重ね、12月、ようやく会社が内部調査でも不正を確認したと認めるに至る。ここも不可思議である——なぜ内部調査から追認までに半年以上も費やさざるを得なかったのか。
つまり、組織は自浄できなかった。内部の正しい声に「耳に順う」ことができず、外部の通報を待つしかなかった。「六十にして耳順う」を号にした男が設計した組織が、最も苦手としたのが、まさに「下から上への耳」だったのである。
ここで思い出してほしい。孔子の「耳順」は、本来、上に立つ者が下の諫言に耳を傾ける徳を含意する。耳庵が築いた体制が壊したのは、まさにその回路だった。
なぜ耳は塞がれたのか——淘汰なき大樹
ではなぜ、耳が塞がれる組織が生まれたのか。犯人捜しをしても答えは出ない。問うべきは「構造」だ。
耳庵が設計した九電力体制には、2つの要となる柱があった。1つは地域独占。その地域では、その会社からしか電気を買えない。もう1つは、かかった費用に一定の利益を上乗せして料金を決める「総括原価方式」。設備に投資すればするほど、確実に利益が上乗せされる仕組みだ。設備投資額が他の発電方式に比べて格段に巨額になる原子力発電は、非常に美味しいビジネスでもあるのだ。
この2つが組み合わさると、何が起きるか。会社は競争で淘汰される心配がない。倒れる恐怖がない。設備を造れば造るほど儲かる。いわば、絶対に枯れない「金のなる大樹」が植えられたのである。
総括原価方式は2016年以降、表向きは廃止されたことになっている。だが送配電網という独占の城は残り、原発の賠償費用も廃炉費用も、形を変えて私たちの電気料金に乗り続けている。骨格は、厳然として生き延びているのだ。
絶対に潰れない組織では、経営者は事業を切り拓く起業家ではなく、既得の樹を守る「番人」になる。外の世界と競う緊張がないから、関心は内側——社内の処遇や立場——に向かう。典型的な「内向きガバナンス」が熟成されていく。
とりわけ競争圧力にさらされない原子力部門は、専門性が高く、閉鎖的な聖域になっていくのである。いわゆる「ムラ化」が進む。今回の捏造の現場となった原子力土建部も、2016年に発電本部から原子力本部の管下へと移して新設された、まさにその聖域の一角だった。
実際、過去にも複数の電力会社で、原発のトラブル隠しが繰り返し発覚してきた。今回の中部電力だけの問題ではない。業界に染みついた構造的病なのだ。
30年前の「作文」
この構造の恐ろしさを示す、もう1つの事例がある。
福島第一原子力発電所事故の主因となった「全電源喪失(SBO)」——非常用電源まで含めて全ての電気を失う事態——について、国の原子力安全委員会の作業部会は、1993年の時点で規制対象案件として検討していた。ところが、当時の安全委員会は炉心が損傷する可能性を認めながらも、なお「SBOを考慮する必要はない」とした指針を追認したのである。
さらに後年明らかになったのは、その「考慮しなくてよい理由」を、規制する側が、規制される側である電力会社に「作文」させていたという事実だった。規制機関が、規制対象に、自らを縛らなくてよい言い訳を書かせていた。
これは個人の良心の問題ではない。原発を実際に設計し、運転し、現場でトラブルを処理してきた知識は、全て事業者の側に蓄積される。規制する学者や官僚は、事業者が見せてくれた資料・データを通してしか、現実に触れられず、知ることもない。知識を独占された側が、独占した側を規制する——この倒錯した力関係の前では、誰がその椅子に座っても、筋を通すのは難しい。
1993年の「作文」と、2026年に発覚した浜岡の「逆算」。30年を隔てて、同じ病理が反復している。業界が、自らに都合のいい技術的結論を、権威の体裁で「作文」する、という病理が。
「無私」という名の免罪符
ここに、この物語の最も苦い皮肉がある。
耳庵は、無私の人として語り継がれてきた。私財を追わず、集めた美術品を財団に寄せ、名誉すら辞退した——そういう人物像である。だが、こうした美談にこそ用心がいる。「無私」という前置きを1つ与えておけば、その後にどんな構造の歪みを並べても、「とはいえ本人は清廉だった」で帳消しにできてしまうからだ。徳の物語は、構造への批判を中和する緩衝材になる。
そして問うべきは、その物語をいま誰が必要としているか、である。耳庵が植えた金のなる大樹は枯れず、その甘い汁を吸い続ける者たちは、始祖を「私心なき公益の士」と語り継ぐことで、自らの正統性を70年さかのぼって調達する。無私という記号は、過去の死者を顕彰するためのものではない。現在の受益者が手放せない、現役の免罪符なのだ。
事実はどうか。耳庵は、公共性の極めて強い電力事業を率いて巨富を築いた人物である。電力会社は株式会社であり、その上がりは公共に還る公的財産ではなく、会社と株主の手元に残る私財になる。耳庵はその私財を惜しみなく注いで国宝級の茶器や美術品を集め、やがてそれらを財団に寄付した——ただし「耳庵」の銘は、しっかり残している。私財を追わなかったのではない。追って得た富を、徳の意匠で包んでみせたのである。
そのようにして、松永安左エ門、あるいは耳庵を歴史の永遠に刻み込んだ。
おそらく耳庵自身は、私利のためにこれを設計したのではなかったかもしれない。心から「公益のため」と信じていたのかもしれない。だが、本人の信念がどうであれ、後世がそれを「無私の創業者が公益のために築いた体制」と語り直した瞬間、その物語は構造を免罪する盾に変わった。善意であればあるほど、いや、善意だと語り継がれれば語り継がれるほど、70年、誰もその根を疑わなかった……見事な欺瞞である。
私たちが順うべき耳
中部電力のデータ不正は、一企業の逸脱ではない。耳庵が「公益のため」と信じて植えた、淘汰されることのない金のなる大樹。その下で番人と化した経営。事業者だけが知識を独占する非対称。そして、内部で何度も繰り返された声にも、専門家の警告にも、古老の言い伝えにも順うことのできなかった、塞がれた耳。その全ての帰結が、地震の揺れを小さく見せかける1行のデータに、凝縮していた。実に皮肉というほかない。
いや、そもそもこれを「事件」と呼ぶことが、すでに1つの罠なのかもしれない。事件には、始まりと終わりがある。犯人がいて、被害があり、やがて誰かが裁かれ、決着がつく。「事件」と名指した瞬間、私たちは無意識に、その物語の幕が下りる日を期待してしまう。
だが、ここに終わりはない。逆算する手も、作文させる手も、特定の誰かの悪意ではなく、淘汰なき大樹がその根から押し上げてくる構造そのものなのだ。番人が1人代わっても、樹は枯れない。これは「事件」ではなく、70年かけて熟した1個の体質の、たまたま今回見えた断面にすぎない。事件として裁いて気が済んでしまうこと——それこそが、この構造が一番望んでいる幕引きなのである。
「六十にして耳順う」と号した男が遺した体制は、皮肉にも、耳を塞ぐことで延命してきた。私たちがいま順うべきは、握りつぶされた内部の声であり、30年前に鳴らされた警鐘であり、海辺の古老が語り継いだ巨大津波の記憶である。
耳の痛い話にこそ、耳を順わせること。それが、耳庵という号が、本来この国に遺すはずだった教えだったはずだ。
耳庵も草葉の陰で地団駄を踏んでいるかもしれない。







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