チャットGPTのような大規模言語モデル(LLM)をめぐる議論にはすれ違いがある。一方ではLLMは人間のように文章を書き、翻訳し、要約し、議論までできるように見えるが、他方では、それは本当の意味を理解しているわけではなく次に来る単語の確率を予測しているだけだという批判がある。
世界に「本当の意味」があり、それが言葉と1対1に対応していると考えるなら、LLMは意味を理解していない。だが後期ウィトゲンシュタインは、言葉の意味はその本質や定義ではなく、使い方にあると考えた。言語は世界の写像ではなく、人々が生活の中でおこなう言語ゲームなのだ。
言葉は世界の写像ではない
ウィトゲンシュタインは前期の『論理哲学論考』では、言語は世界の写像だと考えた。命題は世界の事実を写し取り、その命題が真か偽かは、世界との対応によって決まる。この思想は論理実証主義や分析哲学に大きな影響を与えた。
この言語観では、「リンゴは赤い」という文は、世界の中のある対象「リンゴ」と、その性質「赤い」との対応関係を示す。文を理解するとは、その対応関係を計算することになる。自然言語処理の初期の試みも、この発想に近かった。単語に意味を対応させ、文法規則に従って文を解析すれば、コンピュータも言葉を理解できるはずだった。
しかしこの考え方はすぐに壁にぶつかった。そもそも「リンゴ」とは何か。目の前にある1個の果物なのか、リンゴという種全体なのか、絵に描かれたリンゴも含むのか。赤いリンゴと青リンゴの境界はどこにあるのか。言葉を厳密に定義しようとすればするほど、定義は別の言葉を必要とし、その別の言葉にもまた定義が必要になる。これが人工知能の挫折の原因になったフレーム問題である。
後期ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』でこの問題を根本から考え直した。彼は、言葉に本質的な意味があり、それを定義すればよいという考え方を捨てた。言葉の意味は、辞書の中にあるのではない。社会的な行為の中で、その言葉がどのように使われているかによって決まる。
たとえば「ゲーム」という言葉は、ボードゲーム、球技、カードゲーム、テレビゲームなどいろいろあるが、これらすべてに共通する本質を探すことはむずかしい。それでも私たちは、それらを「ゲーム」と呼ぶ。ウィトゲンシュタインはこれを家族的類似性と呼んだ。
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