
嵐の解散ライブと実父の通夜が重なり、妻が通夜よりライブを優先したとされる投稿がSNSで拡散した。葬儀の日程変更まで求めたとするスクリーンショットも流布し、議論を呼んでいる。個別の事実関係や家族の内情は、外部からは知る由もない。
しかし今回の問題は、その事実の確定ではない。
この構図が賛否両論になったこと——それが問題である。
ライブ優先への批判が否定されたわけではないが、批判しづらい空気が以前よりも色濃くなり、社会的規範が揺らいでいる。その方向性が問われなければならない、ということだ。
あらかじめ言っておくが、言うまでもなく、嵐に非はない。嵐の音楽的・社会的価値を否定する話でもない。
出演者として参加する予定だった、誰かのチケットを預かっていた、など、自分以外への影響がある場合は文脈が異なる。今回の議論は純粋に、自分一人の欲望の追求を、実父の通夜より優先した話である。
「推し活」という言語装置
なぜ批判が抑制されるのか。
「推し活」という言葉がある。アイドルへの熱狂的な消費行動を、この言葉は「活動」として正当化する。もちろんアイドルへの感情は、狭義の性欲だけではない。憧れ、人生史、所属感、自己同一化も混ざる。しかし異性アイドルへの熱狂的消費の中核に、性愛や疑似恋愛が含まれていることは否定しがたい。それをまるごと「推し活」と呼ぶことで、欲望の性的側面が見えなくなる。
もし夫が、実母の通夜を妻に任せてAKBや乃木坂のコンサートへ行ったとしたら、社会はそれを「性欲優先」と読んで強く非難したはずだ。しかし女性の場合、同じ構造の行動が「推し活」「人生の支え」「自己同一性の問題」として語られ、批判の矛先が鈍っている。
この非対称性は偶然ではない。「推し活」という言語が、性愛・疑似恋愛を核とした欲望消費を脱性化・文化化し、批判への緩衝材を与えているのだ。欲望を欲望として正直に語らず、文化的正当性という湿布を貼ることで、批判そのものが「不寛容」として退けられる。
これは欺瞞としか言いようがない。
通夜の意味と生命倫理
通夜は実利的な行事ではない。
しかし死を悼むことと、生を尊ぶことは表裏一体だ。
他の動物と人間を分かつ、人類社会の根幹的な線引きである。
終末期・臨終・通夜・葬儀・法事は、それぞれ意味合いが異なる。しかし前者であるほど、生命への配慮が優先されるべき場である。たとえば若くして亡くなった父の通夜と、子の受験や真剣に取り組む大会が重なった場合も例として議論されている。この場合、そちらを優先することへの一定の理解はあって然るべきだ。子供の将来への配慮、社会的意義のある理由があれば、話は別である。
しかし今回の構図は違う。社会的意義のない純粋な個人的欲望——しかもその核心に性愛・疑似恋愛を含む欲望消費——を、生命の尊厳を社会的に確認する儀礼より上に置いている。
通夜を欠席する自由はある。家族関係も事情もそれぞれであり、国家や社会が一律に出席を命じるべきではない。問われているのは自由の有無ではなく、親の死の直後の通夜より、性愛・疑似恋愛を含む私的欲望消費を優先する選択が、批判を受けにくくなっている社会的傾向の是非である。
社会保障の根拠は生命倫理にある
私は長らく、無駄な医療・福祉の削減と、皆保険を含む標準医療の持続可能性の両立を訴えてきた。この二つは矛盾しない。むしろ表裏一体である。
社会保障とは、生命とその尊厳への共同的な配慮を制度化したものだ。疾病・老齢・障害というリスクを社会全体で分散し、解決すべき課題として共有する仕組みである。その基盤には、生命を共通の最優先価値として社会が共有することが前提として置かれている。
その前提が揺らぐとき、何が起きるか。
生命の尊厳を示す儀礼より、性愛・疑似恋愛を含む私的欲望消費を優先することが社会的に免責されるなら、終末期医療への公費投入の道徳的説得力は著しく弱まる。生命の尊厳を欲望消費より下に置く社会で、なぜ終末期医療に公費を投じるのか。その説明は困難になる。社会保障インフラの存在基盤が、確実に毀損されつつある。
今回の構図が示すもの
今回の件にはもう一つ、見落とせない構図がある。
この妻は、通夜という社会的儀礼を夫に押しつけ、葬儀の日程変更まで求めたとされながら、自身の欲望を満たし、批判は拒否した。給付は求めるが負担は他者に委ねる。その論理は、社会保障に給付を求めながら自己負担を否定する態度と、構造的に同じである。
自由主義社会において、立場は二つある。しかしいずれの立場に立っても、結論は同じ方向を指す。
欲望を優先する社会を望むなら、社会保障は削減されるべきだ。リスク分散の合意基盤が失われるのだから、当然の帰結である。
社会保障を維持したいなら、生命倫理を共通基盤として守り、相応の自己負担を引き受けるべきだ。それが制度を支える側の覚悟である。
良いところどりはできない。批判を封じながら保障だけ求めることは、自由主義としても社会保障論としても、論理的に成立しない。
批判の回復こそが第一歩
新しい制度や価値基準が必要なのではない。失われた非国家的倫理規範を可視化し、回復することが先決だ。
「推し活」という言語による批判免疫を剥ぎ取ること。欲望を欲望として正直に語らせること。そしてその欲望を生命の尊厳より優先した選択に対して、社会が堂々と批判の声を上げること。
批判を拒絶するなら、社会保障の削減を甘受する覚悟も持つべきだ。
それは不寛容ではない。社会保障を守るための、最も根本的な文化的作業である。
生命倫理の正常化なくして、社会保障の正常化はない。
編集部より:この記事は精神科医である東徹氏のnote 2025年5月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は東徹氏のnoteをご覧ください。







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