日本の気候政策は「IPCC前提の単線構造」に陥っていないか

2026年5月26日、参議院環境委員会において「太陽電池廃棄物の再資源化等の推進に関する法律案」の参考人質疑が行われ、杉山大志氏(キヤノングローバル戦略研究所)が参考人として意見を述べた。

杉山氏の意見の柱は二つである。第一に、本法案ではリサイクル費用を誰が負担するのかが明確でなく、一般国民ではなく関係事業者が負担すべきこと。第二に、大量廃棄問題の根本原因である太陽光発電の大量導入そのものを見直すべきこと。そしてこの文脈で杉山氏は、日本単独の排出削減が地球の気温に与える影響は極めて小さいという、かねてからの持論にも触れた。

この「日本が2050年に脱炭素を実現しても、気温低下は0.006℃にとどまる」という数値は、IPCC自身が採用する累積CO₂排出量と気温上昇の比例関係(TCRE)を用いて杉山氏が行った概算であり、解説記事として公開されている※)。つまりIPCCの枠組みの内側で計算しても、日本単独の削減効果はこの程度にとどまる、という算術である。

この試算には、かねてから定型化した批判が存在してきた。しかし本稿が注目したいのは、その賛否そのものではない。IPCCの前提を疑う議論が、国会という公式の場でこれほど稀にしか聞かれないのはなぜか、という構造問題である。

IPCC前提を「動かせないもの」とする日本の制度構造

従来の批判は、IPCCの枠組み——CO₂が主要な温暖化ドライバーであり、気温上昇は累積排出量に比例し、気候モデルは方向性として信頼できる——を所与の前提としている。問題は、日本の政策形成がこの前提を疑う余地を制度的に持っていないことだ。

官僚は国際交渉の枠組みを前提に政策を設計し、政治家は官僚の説明を前提に判断する。学界は研究費配分の構造上、枠組みから外れた研究テーマを立てにくく、財界は補助金と規制対応で動き、メディアはIPCCを「科学の総意」として扱う。

象徴的な実例がある。参政党の神谷宗幣代表が2024年3月21日の参議院財政金融委員会でこの0.006℃試算を取り上げた際、鈴木俊一財務大臣(当時)は「日本の排出量が全体の3%といえども、また半減しても0.006度であるといえども、国際社会の一員として気候変動対策をやるべき」と答弁した。

数値の妥当性を争うのではなく、「国際協調」という規範で議論を閉じる——前提が検証の対象ではなく、動かせない所与として扱われていることを、政府答弁そのものが示している。こうしてIPCC前提の単線構造が形成され、異論は周縁化されて公式の政策論議の場にほとんど登場しない。今回の参考人質疑が注目を集めたこと自体が、その希少性の証左である。

米国には気候科学の「議論の幅」が存在する

一方、米国を中心に世界の議論はもっと多層的だ。プリンストン大学名誉教授のウィリアム・ハッパー氏(物理学)やMIT名誉教授のリチャード・リンゼン氏(大気物理学)らが参画するCO₂ Coalition、「世界気候宣言」を主導するCLINTELなど、IPCCと異なる視点を持つ研究者・団体が一定の影響力を持つ。

彼らは、IPCCの気候感度(ECS)は過大であり、気候モデルの予測は観測との乖離が大きく、気候災害増加の統計的証拠は確認されていないと指摘し、CO₂が植物の生育を促す側面や、急進的な脱炭素がエネルギー安全保障を弱体化させるリスクを論じる。

つまりIPCCの土台そのものに疑義を呈する立場であり、議会公聴会などを通じて政治的にも影響を与えている。ところが日本では、こうした議論は政策形成にほとんど入ってこない。

異論を「検証の資源」とみる文化、「和の乱れ」とみる文化

この差は制度の差であると同時に、文化の差でもある。

米国には、対立する主張を公開の場で戦わせることで結論の質を高めるという、討論と反対尋問の伝統がある。議会公聴会には賛否双方の専門家を招くのが通例であり、組織の中にあえて反対役(devil’s advocate)を置く慣行も根づいている。異論は和を乱すノイズではなく、仮説を鍛える検証の資源として扱われる。科学哲学でいう反証主義が、いわば制度の作法として埋め込まれているのだ。

対照的に日本では、山本七平が『「空気」の研究』で看破したように、いったん場の「空気」が形成されると、当否の検証を経ないままそれが決定を支配する。合意は公開の討論ではなく事前の根回しで形成され、確定した前提に異を唱えることは、論の当否以前に「和を乱す」振る舞いとして退けられる。鈴木財務相の答弁が数値を争わず「国際社会の一員として」という規範で議論を閉じたのは、この作法の現れである。

脱炭素はもはや検証対象の科学命題ではなく、疑ってはならない「空気」と化している。このコストは小さくない。再エネ依存の天候リスク、燃料輸入の地政学リスク、電力コスト上昇による産業競争力の毀損といった論点が、「CO₂削減」という単一目的の空気の陰に追いやられたままになるからだ。

必要なのは「前提を問い直す」知的態度

公平のために付言すれば、杉山氏の試算への従来の批判にも一定の理がある。一国の寄与だけを切り出して「僅かだから無意味」とするなら、各国が同じ論法を採れば誰も削減しなくなる、という指摘である。

だがこれは気候科学というより国際協調のゲーム理論の問題であり、本来は開かれた政策論争として国会の場で検討されるべきテーマだ。問題は、そうした検討が公式の場でほとんど行われてこなかったことにある。

気候政策は科学・経済・安全保障・地政学が交差する複雑な領域であり、前提を疑う議論が「空気」によって排除される状況は、健全な政策形成とは言い難い。

今回の参考人質疑は、日本が知的多様性と思考の柔軟さを取り戻すための試金石である。異論を排除するのではなく、前提を問い直す議論をこそ歓迎すべきだ。それが、国益に資する気候政策への第一歩になると考える。

※)杉山大志「エネルギーは日本の生命線だ(2)大枚はたいて『脱炭素』しても効果は雀の涙」夕刊フジ(2024年10月31日)掲載、キヤノングローバル戦略研究所転載

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント