
イラン戦争の混迷はいよいよ、ぼくら日本人のなじんだ世界の “終わり” を証明したようだ。TVで見る専門家たちの多くが、米国(とイスラエル)が軍事力で圧倒する展開を前提に論じてきたが、事実としてそうなっていない。
ぐだぐだと続く停戦交渉でも、「いつ席を蹴ってもいい」と一貫して強気なのはイランの側だ。一方でアメリカは、和平を邪魔するネタニヤフについにトランプがキレたりして、ぱっとしない。

焦るトランプが核使用を検討し、軍の抗命で止められたとの情報さえ、4月には駆け巡った。真偽は不明だが、そんな証言が出回るだけでも、いかにこの数年で世界が変わったのかを痛感する。

イラン戦争の開始からちょうど4年前、2022年2月にロシアがウクライナに侵攻したときの話題は、もっぱら「プーチンが核を使う可能性」だった。アメリカが先に使うリスクが噂されるだなんて、当時は誰も思ってなかった。
もちろん世界で唯一、核を実戦使用しているのは米国で、実はその「次の戦争」でも、3度目の投下の一歩手前までは行っていた。22年の5月にそれに言及し警鐘を鳴らしたぼくも、たった4年でのこの急変には、言葉が出ない。

朝鮮戦争下で中国大陸への直接攻撃を唱えたマッカーサーは、第三次世界大戦を懸念したトルーマンに更迭され、それが結果的に米軍の原爆使用を防いだ。
対して今回プーチンを「解任」できる上位の主体は、ロシアの内にも外にもいない。
2022.5.7
強調と改行を付与
もっとも昨年の12日間戦争(25年6月)の後には、次のとおり「アメリカが使う」可能性をはっきり書くようになっている。理由は別に反米じゃなく、またトランプを愚昧視するからでもない。
むしろプーチンだから、トランプだから「やりかねない」といった、特定の固有名詞に依存した議論ではなく、それらを全部取り換えてもなお成り立ちうる可能性に目を凝らすのが、”歴史” の探究だと考えているからである。

プーチンもネタニヤフも、もちろんトランプも、これからの戦争で「核を使う」可能性は排除できない。
そして幸いに使われなくても、相手の主権の存続すら認めずに終戦へと持ち込む「見えない原爆投下」としての、無条件降伏の思想には、終わりがない。
2025.8.6
とはいえこのセンスは、歴史学では身につかない(笑)。ジッショーしかできない彼らには、「俺がセンモンとする詳しい固有名詞」にすがりついて、マウントを取るほかに芸がないからだ。
では、どこで身につけるのか。
『危機のいま古典を読む』にも収めた2022年12月、ウクライナ戦争の最初の年が終わる際の小文で書いたように、眼の前のニュースごとに入れ替わるセンモンカではなく、時代を越える古典に接することが修練になる。

眼前の固有名詞(戦争や独裁者の名前)こそ変われども、不変の「本質」を伝えてくれる作品のことを、私たちは長らく「古典」と呼んできた。
私たちが生きる2020年代の、「旬の話題」ばかりが入れ替わってなにひとつ問題は解決しない軽薄さは、そうした現在の鑑としての古典との接し方を、私たちが見失ったことに起因する。
2022.12.16
ここで大事なのは、古典は他人にマウントをとるための道具ではないことだ。つまり著者が偉い人だとか、大学で必読書になってるとか、タイトルが広く知られて読んでると “人文主義者” ぶれるとかは、カンケーない。

むしろポイントは、①読み直すたびに新しい発見があり、②前に読んだときとは違う時代にも通じるなにかを「読み出せる」ことだ。しかし、どんな本をそこまで深く「読み直したく」なるかは、その人ごとにまるで違う。
だから古典とは本来、その人にとってのものである。これが私の「バイブル(聖書)です」みたいに言うとき、指している本のことだと言いかえてもいい。当然、全員が一緒である必要もない。
たとえば「ロシアなら」使いかねない、「イランが持つなら」ヤバすぎると言われた核を、「アメリカが」先に使ったかもしれない現在に向きあうとき、ぼくの場合はこんな一節を思い出す。
『かくも短き眠り』
「歴史に方向性を与えるのは思想家の役目だ。マルクスを見よ、共産党宣言でロシア革命を呼び起こし1917年以降ベルリンの壁が崩れるまでの世界の枠組みを創りだした。ホメイニを見よ、フランスでの演説によって中東からアフリカまでイスラム原理主義を蔓延させた。
わたしたちはそういうものと戦って来たわけだが、いまにして思う。新たな思想家を引っ張りださなきゃならない。のっぺりとして締まりがなく人間の精神までも数値に置き換えてしまういまの世界に新しい緊張をもたらしてくれる思想家を。
わたしはそのための検討材料となるべき戦いをこれからはじめようと思ってる……」
集英社文庫版、477頁
(算用数字に改変、…は原文)
民主化後のルーマニアで、共産政権の残党をテロ組織に集めつつこう叫ぶのは、なんと冷戦下で反米勢力と戦い続けたアメリカの元特殊部隊員である。むろんフィクションだが、それだけに今日に通じる皮肉が痛切に響く。
「この国が」ダメだ、平和の敵だと思った瞬間に、その人は特定のイデオロギーの虜になり、人間や国家や暴力の “本質” を取り逃す。これがセンモンカが予想を外す理由で、それならTVを消して小説でも読んでた方がいい。

1994年から連載された『かくも短き眠り』は、冒険小説の泰斗にしては小品だった(それでも文庫で638頁あるが)。だが冷戦の終焉からわずか数年で “眠り” から覚めうることを指摘した慧眼に、作家が持つ創作の力がある。
引用した気焔の主はビッグフォード少佐というのだが、本人がビッグフォードに「なっている」人は、かえってビッグフォードを「描く」ことができない。これが万事につけて、意外に小説家を侮ってはいけない理由である。
逆に、誰もが眠りから覚めた後になって、「私にはわかっていた」としゃしゃり出るのは簡単で、そうした人は自分がビッグフォードになっても気づかない。面白いから、センモンカによる実践の例を引いてみよう。

冷戦崩壊後、世界はより友好的な方向に向かう……多くの人はそのような幻想を抱きつつ、「本当にそうだろうか」というわずかな違和感も感じていたのではないでしょうか。今回のロシアによるウクライナ侵略は、その違和感こそが正しかった……東西の分断も埋まってなどいなかったことに気づくきっかけにもなっています。
東野篤子氏、2025.4.2公開
(1つめの…は原文)
面白いと書いたのは、この後「違和感」の中身を訊かれて持ち出す具体例が2008年の事件なことだ。「冷戦崩壊後」もなにも、20年も経ってから “私は内心、違和感を持っていた!” と言い出すのを、一般には後出しと呼ぶ。
ところが令和の世には、「私は文学がセンモンです」と言いながら、後出しなセンモンカのお先棒をSNSで担ぐことで、「国際政治もベンキョーしてます」 という顔をする人もいるらしい。
SNSを見ると混乱し暗澹たる心地になりますが、東野篤子さんのニュースレターがわかりやすく冷静でよかったです。おすすめの共有。
【もう、基礎の基礎から分からない!というあなたにおすすめ記事】ポリティコ「イラン攻撃について私たちがわかっていること、いないこと」https://t.co/wjhxSIRYuD
— 三宅香帆 (@m3_myk) March 1, 2026
なぜこの人は、①本人も「中東に関しては完全に素人です」と認め、逆に② “センモン” のはずのウクライナ戦争で誤った情報を流した過失は認めない学者が、紛争の③当事者である米国のメディアから訳した記事を「おすすめ」するのか。

TVでよく見る人のメルマガを取ってるのは “知的” だという自意識の他に、理由を見出すのはむずかしい。「だって有名な人が言ってたもん」以外に、自らの判断の根拠を持たない、情報ポピュリズムそのものである。
そんな態度はもちろん、”批評” からは最も遠い。文学以外はセンモンじゃないんで「よくわかんないから、とりあえずTVを頼りにします」なんて “文藝評論家” は、誰も見たことがない。
本物の文藝評論家とは、話題のいかんを問わず、伝言ゲームでなく自分の頭で考えるために、文章を読み・書く技倆を持つ人のことだ。だから遺された批評や評論がしばしば、時代を越えて本質をつかむ手がかりになる。

専門家を名乗るセンモンカぞろいの時代が令和なので、新たにブンゲイヒョウロンカが登場しても違和感はないのだが、誰かが「それはホンモノじゃないですよ」と言わないと、ひとつのジャンルがまるごと消えてしまう。
とはいえ、自分でやらずに「あれはニセモノ」とばかり言うのも無責任で、品のよくない話だ。
発売中の『文藝春秋』7月号の連載「保守とリベラルのための教科書」は、もし文藝評論の伝統がほんとうに健在なら、なにがいま語られるかをモチーフに書いてみた。ぜひ多くの人が、自ら考えるきっかけになれば嬉しい。

参考記事:


(ヘッダーは、4/30の日本経済新聞より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年6月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。








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