Lancet掲載は印籠ではない:コロナ禍で乱用された医学誌とエビデンスの権威

コロナ禍で、日本人は突然、国際医学誌の名前を耳にするようになった。

「Lancetに載った」「NEJMに出た」「BMJが報じた」「JAMAに掲載された」。

これらの言葉は、テレビ、新聞、SNSで一種の印籠のように使われた。専門家がそう言い、メディアが紹介し、一般人は「有名な医学誌に載ったなら正しいのだろう」と受け止めた。

同時に、もう一つの言葉も乱用された。

「エビデンスはあるのか」「エビデンスを出せ」「反対するならエビデンスを示せ」。

もちろん、エビデンスは不要だと言いたいのではない。むしろ逆である。政策や医療が、思いつきや空気や感情で動かされてはならないからこそ、エビデンスは重要である。

だが、コロナ禍で問題だったのは、エビデンスという言葉が、しばしば議論を深めるためではなく、議論を終わらせるために使われたことだ。

感染対策を推進する側は、マスク、休校、行動制限、面会制限、ワクチン、イベント制限などについて、慎重論や反対論が出るたびに「エビデンスはあるのか」と迫った。一方で、自分たちが政策を進めるときには、相関関係にすぎない研究や限定的な観察研究、有名医学誌の論説を、あたかも因果関係が証明されたかのように扱う場面があった。

これは科学的態度ではない。エビデンスという言葉を使った言論封殺である。

そもそもLancet、NEJM、BMJ、JAMAはいずれも世界的に有名な総合医学誌である。医学全体に関わる重要な研究、臨床試験、公衆衛生、医療政策、倫理、論説などを扱う。掲載されれば、研究者や医師にとって大きな業績であることは間違いない。

しかし、それは「そこに書かれたことが絶対に正しい」という意味ではない。

よく使われる指標にIF、インパクトファクターがある。簡単に言えば、その雑誌に載った論文がどれだけ引用されたかを示す雑誌単位の指標である。だが、IFは個別論文の真理度を示すものではない。高IF誌に載った論文でも間違いはあり得る。逆に、低IF誌や無名の専門誌に載った論文でも重要な知見はあり得る。

さらに、臨床系の総合医学誌はIFが高くなりやすい構造を持っている。大規模臨床試験、メタ解析、総説、診療指針に近い論説、公衆衛生上の緊急テーマは、世界中の医師、研究者、政策担当者、メディアに読まれる。引用する人の母数が大きい。つまり高IFは、論文の質だけでなく、読者層の広さ、テーマの社会性、編集戦略によっても支えられている。

「有名医学誌に載った」ことは重要な情報である。しかし、それは議論の終わりではない。むしろ議論の入口にすぎない。

ここで問題になるのが、コロナ禍における論文の読まれ方である。

本来、医学論文を読むときには、最低限の確認が必要である。それは原著論文なのか、レビューなのか、Editorialなのか、Commentなのか、Correspondenceなのか、Opinionなのか、Newsなのか。同じ医学誌の中でも、Lancetの原著論文とCorrespondence、NEJMのランダム化比較試験とPerspective、BMJのOpinionと査読付き原著論文は違う。

ところが一般メディアでは、それらがまとめて「有名医学誌に掲載」と処理される。読者は違いを知らされない。結果として、雑誌名だけが独り歩きする。

次に確認すべきは、研究の中身である。対象者は誰か。観察研究なのか、介入研究なのか。相関を示しているだけなのか、因果関係まで言えるのか。効果の大きさはどれほどか。副作用や社会的コストは見ているのか。

ところがコロナ禍では、こうした違いがしばしば曖昧にされた。特に深刻だったのは、相関関係を因果関係であるかのように読ませる言説である。

たとえば、ある地域でマスク着用率が高く感染者が少なかったとしても、そこから直ちに「マスクが感染を減らした」とは言えない。人口密度、検査数、年齢構成、季節、行動様式、過去感染、医療アクセス、報告制度など、さまざまな要因が関わるからである。

厳しい行動制限の後に感染者が減ったとしても、流行の自然減衰や住民行動の自発的変化を無視して、政策効果だけを断定することはできない。

もちろん、観察研究に意味がないわけではない。緊急時には不完全な情報で判断しなければならない場面もある。しかし、不完全な情報で判断することと、不完全性を隠して国民に断定的に語ることは違う。

エビデンスを本当に大切にするなら、その限界も同時に語らなければならない。相関なのか、因果なのか。短期効果なのか、長期影響なのか。感染を減らす可能性だけを見ているのか、それによって失われるものまで見ているのか。

感染対策の利益については、不完全な研究でも「エビデンスがある」とされた。一方で、感染対策の害については、「十分なエビデンスがない」として軽視された。たとえば子どものマスクや休校では、感染抑制の可能性は強調された一方、発達、学習、表情認知、孤独への影響は後景に追いやられた。

だが、社会的な害は、しばしば害が広がった後でなければ観測できない。子どもの発達、孤独、学力、表情認知、対人関係、精神状態への影響は、実験室で即座に測れるものではない。数カ月、数年単位でようやく見えてくるものもある。

つまり、「害のエビデンスが十分に出てから考えよう」という態度は、特に子どもに対しては危険である。害が明確に観測された時点では、すでに取り返しのつかない時間が失われている可能性があるからだ。

子ども時代はやり直せない。学校生活も、友人関係も、表情を見ながら学ぶ経験も、後から完全に取り戻すことはできない。だからこそ、子どもへの感染対策には、より強い比例原則と慎重さが必要だった。

本来なら、専門家は「この研究から言えるのはここまでです」「これは相関であって因果とは限りません」「感染対策には効果だけでなく害もあります」と説明すべきだった。しかし実際には、複雑な論文が単純なスローガンに変換され、限定的な知見が絶対的な政策根拠のように扱われた。

もちろん、国際医学誌は不要だと言いたいのではない。国内で黙殺される問題を世界の専門家に届けるための重要な場である。患者の権利、医療倫理、比例原則、説明責任といった言葉で問題を提示すれば、日本国内では無視される論点も、国際的には議論の対象になり得る。

だからこそ、国際医学誌を神格化してはいけない。

「Lancetに載った」は、水戸黄門の印籠ではない。「NEJMが言った」は、政策の免罪符ではない。「BMJに出た」は、異論を封じる呪文ではない。そして「エビデンスを出せ」は、相手を黙らせるための棍棒ではない。

問うべきは、その知見が何を示し、何を示していないのかである。感染対策には効果だけでなく害もある。特に子ども、高齢者、入院患者、家族、孤独な人々への影響は、数字になりにくいからこそ軽視してはならない。

国際医学誌は、議論を終わらせる道具ではなく、議論を開くための入口である。「Lancetに載った」も「エビデンスを出せ」も、そこで思考停止してよい言葉ではない。

次回は、その国際医学誌を支える巨大出版社、購読料、オープンアクセス、APC(論文掲載料)、そしてハゲタカジャーナルの問題を取り上げたい。

(次回につづく)

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