「祈りの長崎」の原爆の歴史と二つの世界遺産:永井隆『長崎の鐘』

8月9日の長崎における平和祈念式典を見ているだけで、広島と長崎では、何かが違うことがわかると思う。式典の構成や市長の平和宣言の仕方も異なるが、何より雰囲気が違う。歴史も違う。

長崎市の平和公園で開催された長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列した高市首相 首相官邸HPより

ちなみに広島では平和「記念」式典だが、長崎では平和「祈念」式典である。「祈念」とする長崎のほうがストレートで、「記念」とする広島のほうが、むしろ奇異だろう。

広島は、浜井信三市長らがGHQに赴いて、「良心の呵責で広島を支援することはない」と明言していたマッカーサーを豹変させ、占領下の国会に「広島に全面協力するように」と指示を出してもらって以来、そして特定の地方都市を対象とする日本初の特別法となった「広島平和記念都市建設法」が施行されて以来、「平和記念公園」であり「平和記念資料館」である。

長崎では、ストレートに、祈る。キリスト教の深い歴史がある町であるだけに、祈りの重みが違う。「平和祈念像」がある「平和公園」とは別に、「原爆資料館」がある。

巷では、被ばく建造物だった浦上天主堂の取り壊しの経緯が、繰り返し話題になる。確かに、浦上天主堂が残存していたら、大きな意味を持っただろう。「祈り」の文化が可視化される度合いが強まったはずだ。

ただ、原爆ドームの前身である「広島県産業奨励館」が、軍都として中国地方の拠点都市だった戦前の広島の歴史を反映する施設であり、その物理的な姿を残すことによって原爆の歴史と接合しているとすれば、浦上天主堂は少し違う。

浦上天主堂の原爆の歴史との接点は、その精神性にある。長崎平和公園にある浦上天主堂の一部の遺構よりも、「長崎の鐘」として知られる再建された浦上天主堂の「アンジェラスの鐘」のほうが有名であるのは、そのためだと言える。

浦上天主堂(カトリック浦上教会) Wikipediaより

長崎の被爆の歴史では、精神的支柱を、永井隆博士の思想に見出すことができる。永井博士の主著『長崎の鐘』の題名は、カトリック浦上教会(旧浦上天主堂)の「アンジェラスの鐘」に由来する。永井博士自身も、カトリック教徒であった。

永井博士は、長崎の原爆の歴史に刻まれた偉人であり、その著作『長崎の鐘』や『この子を残して』などは、いずれも胸を打つ名作だ。永井博士を偲ぶ施設として「如己堂」が、永井隆記念館と並んで、維持されている。ただ、平和公園から遠くはないが、並んでいるわけでもないので、どうしても地味ではある。

長崎では、世界遺産に登録されている原爆関連施設はない。しかし代わりに、二つの世界遺産がある。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県11件と熊本県天草市﨑津集落で計12件)と「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(8県にまたがって23件が登録されているが長崎では8件)だ。いずれも複数の構成資産からなる世界遺産であり、どれか一つの代表施設というものは、必ずしも存在していない。一つひとつが興味深い施設であり、語ることは多い。本来であれば、世界遺産指定されている施設を全部見てみたいところだ。ただ、あまりにも分散しているため、各地に点在する施設を見に行くには、かなり時間と手間がかかる。

また教会などの施設は、それぞれが非常に小さいだけでなく、その多くが人口の少ない地域に点在している。天草四郎らが籠城したうえで全滅した原城の遺跡などは、城跡ではあるが居住地から離れたところにあるため、世界遺産という言葉のイメージからすると信じられないくらいに、閑散としている。

あえて言えば、長崎市内中心部にあるのが、「キリシタン関連遺産」では大浦天主堂、「産業革命遺産」では(グラバー園内の)旧グラバー住宅(そして沖合の端島[軍艦島])である。大浦天主堂、グラバー園、軍艦島デジタルミュージアムは、徒歩圏内にあるので、観光客が多数訪れる地区となっている。ただ、それでも一体化しているとまでは言えない。

旧グラバー住宅(グラバー園) Wikipediaより

ちなみにグラバー園にあるのは、幕末から明治期に活躍したグラバー商会の創設者トマス・グラバーの旧宅だ。21歳で日本(長崎)に来たスコットランド人のトマス・グラバーは、薩摩や長州の若者たちと懇意になり、武器取引などを手掛けた。そして明治維新の成功に大きく寄与した。岩崎弥太郎とも親しく、維新後は三菱とも深い関係を持ち、炭鉱経営などにも深く関わった。

こうした歴史は、江戸時代の出島の伝統によるものであり、キリシタンの歴史とあわせ、長崎と欧州との深いつながりを物語る。キリシタン文化=出島=明治維新後の産業革命=原爆復興の歴史における科学者でありカトリック信徒でもあった永井隆博士に象徴されるキリスト教精神は、「祈りの長崎」のアイデンティティにおいて、一続きとなっている。しかし、そのような視点がなければ、分散しているように見える。

端的に言うと、祈りの長崎のアイデンティティは強固なのだが、訪問者がそれを感じるには、施設が分散していることが、悩みとなる。あるいはキリスト教の組織的枠に収まってしまっていることが、わかりにくさとなる。施設の分散あるいは精神性のわかりにくさは、統一的な歴史観が希薄であることとも関わる。

とはいえ、現実の事情を度外視して、強引な長崎の観光開発などを行っても、うまくはいかないだろう。長崎には長崎の歴史と文化があり、それらを尊重することが、何よりも大切だ。分散した施設の意味を知りたい。そして精神性を思想として考え直したい。

たとえば、永井隆の思想などは、今日では評判が悪い。イデオロギー的に解釈されてしまうからだ。だが、それは、本当の永井の思想だろうか。

永井隆『長崎の鐘』の中で、家族全員を原爆で失った訪問客の「市太郎さん」が、永井が浦上天主堂の信者代表として読み上げるために執筆した「原子爆弾合同葬弔辞」を読んで、「ぽろりと涙を落と」す場面がある。そこには次のようなことが書かれていた。

・・・米軍の飛行士は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされたものと解釈されないこともありますまい。
終戦と浦上潰滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き羔として選ばれたのではないでしょうか?
智恵の木の実を盗んだアダムの罪と、弟を殺したカインの血とを承け伝えた人類が、同じ神の子でありながら偶像を信じ愛の掟にそむき、互いに憎み互いに殺しあって喜んでいた此の大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を献げて神にお詫びをせねばならないでしょう。これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから、神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間初めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ、終戦の聖断を下させ給うたのであります。
信仰の自由なき日本に於て迫害の下四百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって、今後更に戦禍を蒙る筈であった幾千万の人々が救われたのであります。
戦乱の闇まさに終わり、平和の光さし出づる八月九日、此の天主堂の大前に焰をあげたる、嗚呼大いなる燔祭よ! 悲しみの極みのうちにも私たちはそれをあな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎみたのでございます。汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。
・・・
主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことに感謝致します。
希(ねが)わくば死せる人々の霊魂、天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを アーメン。」
読み終わってから「市太郎さん」は、眼をつむってから、次のように言う。「やっぱり家内と子供は地獄へは行かなかったにちがいない」。
その「市太郎さん」が他の者たちと煉瓦の底から掘り出した教会の鐘は、五十メートルの鐘塔から落ちたのにもかかわらず、全く割れていなかった。そして「朝昼晩、昔ながらの懐かしい音を響かせる」ことになる。その様子を、永井は次のように描写する。
「『カーン、カーン、カーン。』澄み切った音が平和を祝してつたわってくる。事変以来長いこと鳴らすことを禁じられた鐘だったが、もう二度と鳴らずの鐘となることがないように、世界の終りのその日の朝まで平和の響きを伝えるように、『カーン、カーン、カーン』とまた鳴る。人類よ、戦争を計画してくれるな。原子爆弾というものがある故に、戦争は人類の自殺行為にしかならないのだ。原子野に泣く浦上人は世界に向かって叫ぶ。戦争をやめよ。ただ愛の掟に従って相互に協商せよ。浦上人は灰の中に伏して神に祈る。ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野とたらしめたまえと。

永井の思想は、しばしば矮小化されて理解される。日本が罪を犯したので原爆を落とされた、という、いわゆる「自虐的」な思想を永井は持っていた、と批判されることがある。確かにキリスト教の原罪思想に依拠した考え方は、独特である。

だが永井の思想を、犠牲者を罪人とし、原爆の投下を正当化するものだ、と考えるのは、誤解と言わざるを得ない。むしろ逆で、永井にとって、犠牲者はむしろ聖なる犠牲を担った存在であり、原爆は二度と使われてはならないものだ。

永井の思想の基本は、犠牲者たちは人類史に残る尊い意味を持つ殉教をした、という考え方にあると言うべきだろう。詫びているのは「人類」全体である。そして、その人類のために、自らの命を犠牲にして、「戦争をやめよ」と叫んでいるのが、原爆犠牲者たちである。

「浦上人は灰の中に伏して神に祈る」。「ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野とたらしめたまえ」。

戦争被害者の犠牲のうえに、平和が成り立っている、という考え方は、特異でも何でもなく、むしろ戦後長きにわたって日本人が実感として持っていた心情であろう。

生きる者の責任の第一は、犠牲を尊んだうえで、平和を守り抜くことだ、という思想も、日本の戦後社会を支えた考え方であったと言える。

恐らくは、永井の矮小化からは、何も生まれない。まして永井を誤解することからは、弊害しか生じてこないだろう。

戦争の惨禍を防ぐためには、様々な政策的手段も必要だ。平和を訴えるだけでは平和を維持することができない、というのは、全くその通りだろう。

しかし平和を求める人間の思想がなければ、やはり戦争を防ぐことはできないだろう。そうした思想を欠いたままでも、なお平和は維持できると考えるのは、ナイーブだと言わざるを得ない。

「祈る長崎」は、平和の思想を捉え直すのに、非常に広く、深い。

願わくば、その長崎の伝統が、今後も強く、長く続いていってほしいと思う。長崎の思想を矮小化することからは、決してより良い日本の未来は生まれてこないだろう。


永井隆『長崎の鐘』

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