
皇室典範の改正をはじめ、実にひどい国会だったが、延長中の7/21に行った宇野常寛さんとの対談が、YouTubeに上がっている(動画は最後に)。

“なんでも書いてある本” こと『平成史』は、もともと宇野さんと作った本なので、今回も高市政権下で絶頂をつけた「決めれれば熟議は要らない」的な発想の、ルーツに遡って議論している。
2000年代前半の小泉純一郎とか、10年前後の(政治家時代の)橋下徹といった名前は、言われなくても思い出す人が多いだろう。だけど彼らを台頭させた “時代の本質” を見抜くには、狭義の政治に限らない視点が必要になる。

派閥を率いるというのは、構成員と長期にわたって親分・子分の関係を持つこと、いわば擬制的な「父」となることです。その修練を積まずに「子ども」のまま、なにかの弾みで総理総裁になるや、人柄にメディアの注目が集まってブレイクする。
平成には橋本龍太郎・小泉純一郎・安倍晋三という3人の時代を画した宰相が、このパターンを踏んでいます(このほかに海部俊樹・福田康夫の2人も、派閥の領袖ではないまま首相になりました)。
42-3頁(強調を追加)
もちろん「俺たちのSANAE」もこのパターンで、領袖でないどころか無派閥で総理になってるのだが、最初はいちばん熱狂した若年層の心が冷めるのに先導されて、さすがに今回の国会を通じて支持率が落ちてきた。
ぼくからすると、いやいや、元からそういう人だって「見ればわかったじゃん?」と言いたくもなるが、子ども加速主義とでも呼ぶのか、有権者の “内なる幼児性” を吸い上げて発散しないと、選挙で勝てない構造がある。

5月から連載を持っている新潮QUEに、頼まれて先週寄稿したとおり、それはアメリカでトランプ現象を起こした潮流とも、まったく同じだ。
子どもと大人の違いは、自分にとって「ネガティヴなもの」を、どれだけ受け入れられるかでわかる。ところがだいぶ前から、ピーマンはぜんぶ残して捨てる子どもみたいな政治家の方が、ウケちゃう世相が現にあるわけだ。

「自分に代わって」トランプという暴君に、気に入らない相手を全否定する姿を演じてほしい。立場が弱く、ふだんノーとは言えない自分も、それなら溜飲が下がり周囲を殴ってやった気になる。
そうしたニヒリスティックな自己投影が、高市首相を推す日本人にも働いているのを見てとるのは難しくない。なぜ国会の集中審議には出たがらず、ジュエリードレッサーの授賞式には飛んでいく政治家に、呆れや怒りでなく好感を持つのか。「自分もそうしたいのに、できない」欲求不満を、彼女が代わりに晴らしているからだ。
2026.7.23
この「ボクにとって要らないものは、要らない!」という発想を、2008年のデビュー作で宇野さんは決断主義と呼んでいる。そんな気分はまさしく、今回露わになった “議論しない国会” の、原点にあたる時代に広まった。

アメリカ同時多発テロ、あるいは同年〔2001年〕よりはじまった小泉純一郎元首相によるネオリベラリズム的な「構造改革」は、……「相手を傷つけることになっても対象にコミットする」といった「決断主義」の潮流を大きく後押しした。
(中 略)
現在は誰もが自分が信じたいものを信じて噴き上がり、互いの足を引っ張り合う戦国時代のようなものだ。それはマクロには原理主義によるテロリズムの連鎖であり、ミクロには「ケータイ小説」に涙する女子高生と「美少女(ポルノ)ゲーム」に耽溺するオタク少年が互いに軽蔑しあう学校教室の空間である。
ハヤカワ文庫版、110頁
文中に1か所、ネオリベラリズムの語が出てくるが、いま思うと多くの識者にとって、これが罠だった。他人を全否定するお子さまばかりが増え、社会が殺伐とするのは、不況と緊縮財政のせいだとみんな錯覚したのだ。
問題は “子どもっぽさ” を煽る文化それ自体であって、景気や経済政策とは関係がない。だからネオリベと真逆の「積極財政」を掲げ、人手不足で職に困らない高市政権下でも、事態はまるで好転せず、前よりもひどくなった。
そのことは、新潮QUEへのもう1本の寄稿で

思い出してほしい。2010年代に入ってこの方、世に流行る論調はみな、パワーやリソースの「無限大ぶり」を誇るものばかりだった。
(中 略)
円安を止めて物価高を抑えるには「金利を上げるしかありません」と言われても、政権の目には〔国債を発行しにくくすることで〕、われわれから「財源の無限性を取り上げる気か!」としか映らない。しかしそれは、幼児的な全能感を失うのがイヤだから、いつまでも子どもでいたいというのと変わらない。
2026.7.22
として、指摘したところでもある。
こうも煮詰まった状況を、どう変えるのか。
宇野さんの見立てでは、子どもっぽい権力者を担いで自らの幼児性を発散する “推し活政治” を止める方法は、「それだと死ぬ」級の危機や脅威が押し寄せるほかに、もうないのではないかという。要はショック療法である。

本人も(それこそ決断主義になりかねない)危険な発想とわかってはいるのだが、ぼくの見立てはむしろ逆だ。コロナ禍やウクライナ戦争が示したのは、恐怖に晒されるほど、視聴者が “推し専門家” を盲信する構造だった。
秋に出す新刊『なぜ「まちがえた」と言えないのか』では、それをたとえば思春期のリストカットのような依存症の症状であり、すなわち “成熟の不在” として読み解いている。その枠組みは、これまでもチラ見せしてきた。

有料部分になってしまい恐縮なのだが、しかし対談では今後の方途として、①この社会は病んでいると自覚した上で、②よそからモデルを持ち込むのではなく現場の症状から考える、”臨床” が必要だという点で一致している。
宇野さんの別の著書(2020年)になぞらえるなら、必要なのは子ども加速主義とは180度逆に、熟議ができるペースまで情緒をスローダウンさせる「大人減速主義」なのだ。ぜひ、多くの人が気づくきっかけになりますように。
参考記事:


(ヘッダーは、話題の授賞式のPR TIMESより)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年7月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください







コメント