沖縄県名護市辺野古沖で3月、同志社国際高校の研修旅行中に小型船2隻が転覆し、同校2年の武石知華さん(17)と船長の金井創さん(71)が死亡した事故をめぐり、7月30日に東京都内で開かれた武石さんの遺族の記者会見で、琉球新報記者が行った質問に大きな批判が起きている。
遺族はこの会見で、学校関係者や船を運航していたヘリ基地反対協議会の関係者ら計11人を業務上過失致死傷容疑などで刑事告訴したことを明らかにした。父親は、事故の責任が船長一人に帰され、学校や協議会幹部への捜査が行われないまま終わることへの強い懸念を語った。
ところが、その会見で琉球新報記者が、文部科学省が同志社国際高校の平和学習について政治的中立性の問題を指摘したことに関連し、「平和教育が萎縮するのではないか」という趣旨の質問を遺族に投げかけた場面がSNSで拡散。Xでは「子どもを亡くした親に聞く質問なのか」「なぜ遺族に平和教育を守る責任まで負わせるのか」などの批判が相次いだ。

辺野古事故で転覆した「平和丸」
遺族が訴えているのは「平和教育の否定」ではない
この質問が強い反発を呼んだ最大の理由は、遺族がこれまで訴えてきた内容と大きくずれているからだ。
武石さんの遺族は、沖縄で平和や基地問題を学ぶこと自体を否定しているわけではない。むしろ、基地問題について多様な立場を示し、生徒自身が考えられるような教育にすべきだと繰り返し問題提起してきた。
6月には玉城デニー沖縄県知事に対し、辺野古問題を平和教育で扱う場合、どのように多様な視点を確保するのかを問いかけている。玉城知事自身も「ご遺族の仰る通り」と応じ、多角的な視点から生徒が考えるプログラムが必要だとの認識を示した。
つまり遺族が問うているのは「平和教育をやめろ」ということではない。
なぜ高校生を抗議活動に使われていた船に乗せたのか。なぜ安全性を十分確認しなかったのか。なぜ引率教員が乗船しなかったのか。そして、なぜ特定の政治的立場に接近した教育プログラムが、十分なチェックを受けないまま続けられてきたのか。
これらの疑問である。
そこへ「平和教育が萎縮すると思わないか」と尋ねれば、遺族に対して「あなた方の問題提起によって平和教育が萎縮するかもしれないが、それをどう考えるのか」と責任を問い返しているようにも聞こえる。
批判が集中するのは無理もない。
琉球新報が繰り返してきた「萎縮」論
さらに問題なのは、「平和教育の萎縮」という論点が、琉球新報が事故後、一貫して強調してきたテーマであることだ。
同紙は6月21日付社説で、文科省が同志社国際高校の教育内容を教育基本法14条2項に反すると判断したことについて、「平和教育を後退させるな」と主張。「平和構築の礎をなす教育実践が後退するようなことがあってはならない」と訴えた。
もちろん、平和教育が重要であること自体に異論はない。
しかし文科省が問題にしたのは、「沖縄戦を教えるな」とか「基地問題を扱うな」という話ではない。
文科省は、日常的に抗議活動をしている船を利用したこと、研修旅行で抗議活動について説明していたこと、過去の研修旅行のしおりにヘリ基地反対協議会による座り込みを促す文章が掲載されていたこと、さらに異なる見解を十分に提示していなかったことなどを総合的に問題視した。
「平和教育」と「特定の政治運動への参加」は同じではない。
この区別こそが今回問われているのである。
第三者委も「安全配慮義務違反」を認定
しかも遺族会見の翌7月31日、学校法人同志社が設置した第三者委員会は調査報告書を公表し、学校側に「明らかに安全配慮義務違反がある」と認定した。
報告書は、学校側が船の安全性を十分に検証しないままプログラムを導入・継続したとして、安全管理体制の不備を事故発生の最大の原因と指摘している。
つまり、この事故を受けて安全管理や教育内容を検証することは、決して「平和教育への攻撃」ではない。
17歳の生徒が学校行事で命を落とした以上、何が間違っていたのかを徹底的に検証するのは当然のことである。
そこで最初に守るべきものは「平和教育」という看板ではない。
生徒の命である。
メディアが守るべきものは何なのか
記者には厳しい質問をする自由がある。遺族会見だからといって、すべての質問が遺族に寄り添うものでなければならないわけでもない。
しかし、質問にはその記者や報道機関が何を重要だと考えているのかが表れる。
わが子を学校行事で失った両親が、なぜ事故が起きたのか、誰に責任があるのかを明らかにしてほしいと訴えている場で、「平和教育が萎縮するのではないか」という論点を持ち出す。
それを聞いた多くの人が、「この新聞は遺族よりも、自らが支持してきた平和教育のあり方を守ろうとしているのではないか」と感じたとしても不思議ではない。
平和教育は大切である。
だからこそ、政治運動との境界、安全管理、教育の中立性を厳しく検証しなければならない。
人の命が失われてもなお、その検証を「萎縮」という言葉で牽制するなら、それは平和教育を守ることにはならない。むしろ「平和」という言葉そのものへの信頼を傷つけることになる。
今回の琉球新報記者への批判が突きつけているのは、単なる「失言」の問題ではない。
辺野古をめぐる報道で、メディアは事実と人命を第一に見るのか、それとも自らが支持してきた政治的な物語を第一に見るのか。
問われているのは、その報道姿勢そのものではないだろうか。







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