
完結したマンガ『みいちゃんと山田さん』をめぐって、論争が止まらない。先週にはついに障害者の支援団体が、表現の自由を尊重しあくまで「懸念の払拭」のみを求める形で、声明を出した。
noteでこの作品を論じる記事も膨大で、多様な立場の人が意見を表明している。しかし、ぼくなりにかなりの量を読んだつもりだが、いまなお本質が見過ごされている気がしてならない。
同作では、障害に無理解な家庭や学校から疎外された「みいちゃん」が、風俗嬢としての生き方に溺れ、悲惨な死を遂げる。議論の争点は、7月に発表された「アニメ化の当否」に偏りがちだが、実際にはだいぶ前から事態はこじれていた。

みいちゃんの唯一の幼馴染が、途中まで類似の境遇にいたムウちゃんである(ヘッダー、1巻5話)。彼女が知的障害を認定され「療育手帳」を持っていることから、みいちゃんの障害も同様なことが強く示唆される。
ところがアニメ化が公表される前の2月から、「みいちゃん」が発達障害を揶揄するスラングになっているので、作者は公式に対応すべきだとする声がSNSで上がり、すでに賛否を呼んでいた。この時点でなにかがズレていた。

そもそもコミックスの2巻(7話)には、「発達障害」だと明示されるニナちゃんというキャラが、1話限りの形で出てくる。逆にいうと、みいちゃんの障害は「そちらではないですよ」と、十分に告知されているのである。

作品の舞台は2012年
日本のメディアの発達障害ブームは
15~17年のこと
にもかかわらず、なぜ誤読に基づく作品の(不適切な)流用が広まり、アニメ化の決定に先んじて、ネットで騒ぎが起きるまでになったのか。
何度も書いてきたが、発達障害をあたかもギフテッド=キラキラした特性であるかのように扱うメディアの風潮への「反動」が、ここ数年で急速に高まっていた。大多数の実態とは、あきらかに違うよね? というわけだ。


著名なノンフィクション作家が、悲惨な生涯を送る発達障害者ばかりを採り上げる(ぼくには露悪趣味で、問題があるように思える)ネット連載を始めるのが、2023年6月。『みい山』は翌年9月から、やはりWebでの連載だ。
マスコミの「発達障害はむしろ個性!」みたいな煽り方って、なんかオカシかったよね。そんなモヤモヤが充満していたところに、話題を呼ぶマンガが出てきて、実際のストーリーとは違う形で引火したのが実態である。

この障害は「キラキラした個性だから」差別はやめよう、といったPRをメディアが10年も続ければ、その裏で(みいちゃんのような)「キラキラしてない」障害は差別されてもしかたない、とする刷り込みが起きてしまう。
そうした真の原因をスルーしたまま、「みいちゃん呼ばわりよくない、アニメ化よくない」と言うだけの人は、差別を生む構造に無自覚だ。むしろ『みい山』という作品の中にこそ、問題の所在に気づく契機があると思う。

5巻23話
みいちゃんには幼少期から成人後に至るまで、パニックになると「うああああ!」と叫ぶ癖がある。暴れて物を壊すこともある。たしかに同じ場所で、一緒に暮らす人は大変そうである。
しかし社会がパニックに陥った際、「うおおおお!」と特定の論調に固執し、視界に入った異論に集団で殺到して「潰せ!」と叫ぶ人は、いっぱいいる。SNSで暴れまわるから、リモートな場所にまで被害が及ぶ。

なぜ前者だけが揶揄の対象になり、後者はなにも言われない? 「健常者」だから? 数が多いから? 夜職じゃない仕事をしてるから?
そういうのを「差別」って言うんじゃないの?

5巻22話
みいちゃんは注意されるのが苦手だ。周りの人を「叱る人」と「褒める人」に二分して、前者を忌み嫌う。その行為のどこが問題かの理由まで含めて、丁寧に教えてもらったことがないからだ。
これまたしかし、自分への批判は根拠の有無を問わず「誹謗中傷」であり、それらはSNSから一切消えるべきだと公言して憚らない、昼職の大人たちはいっぱいいる。大学教授などの「知的職業」に、就いている場合もある。

なぜそんなことになるのか。障害を採り上げる際の社会の「線引き」が、ずっと恣意的で、おかしかったからである。
特定の「障害」だけをキラキラさせる、ここ10年間のメディアのあり方が、その画面に映らないみいちゃんへの偏見を温存し、むしろ強化してきた。差別へのまちがったワクチンが、薬害のような副反応をいま生んでいるのだ。
大事なのは「健常者に近そう」な障害を持ち上げ、みいちゃんとは違いますよ、と煽ることではない。自分を健康だと思い込むあらゆる人が、潜在的なみいちゃんを内に抱え、同じになり得る存在だと気づくことである。

幸いにこの秋は、メンタルや障害の問題に関して、久しぶりに発言する機会に恵まれた。
ひとつは、先日もお世話になった信田さよ子さん(臨床心理士)の新刊の書評を頼まれて、論じるなかで目下の『みい山』論争にも触れた。
信田さんの同書は、あらゆる人が潜在的には「依存症」を抱えているという観点に立つことが、誰もが生きやすい社会を作るとする洞察に満ちている。その点をこんな風に紹介したので、ぜひ目を通してくれたら嬉しい。

依存とは生存戦略である。あまりにも戦略の立て方が独特で、社会の標準から逸脱した場合には「病気・障害」のレッテルが貼られるが、それは貼りつける側が多数派であることを示すにすぎず、「健康」であることを保証してはいない。
(中 略)
『みいちゃんと山田さん』にせよ後半は、主題が弱者を庇護することで得られる優越感に「依存」する、一見すると病気でない人が抱える闇へと移る。彼らはそれなりに優秀で、社会に適応しているのかもしれない。だがそんな社会の全体こそが、パターナリズムの病を再生産していたら、どうだろう。
2026.8.20、3頁
(強調を追加)
もうひとつは、雑誌『臨床心理学』の増刊「精神分析はたのしい」の刊行を記念して、来月9/28(月)夜のイベントに登壇する。会場は東中野だが配信もあり、アーカイブでも購入可能だ。
参加者は、精神分析家の藤山直樹さん・山崎孝明さんに、依存症治療のプロである松本俊彦さん。ぼくだけが雑誌には寄稿していないので、「外部」の視点から貢献できるよう、がんばりたい。

前回のnoteで、30年も経ち勝敗が確定した後になって初めて、インテリぶって「キャンセルは問題です〜!」と評し出す人のオカシさに触れた。その証拠に彼らのほとんどは、現在進行形の『みい山』については発言しない。
もちろんそんな人たちは学者でも、批評家でも、文藝評論家でもありえない(自称はしてるかもしれないが)。彼らが時勢に呑まれて発する空言と、みいちゃんの「うああああ!」のどこに優劣があるのか、ぼくにはまったくわからない。

作中でみいちゃんを騙す人たちのように、ニセモノが横行したこの10年間のゴマカシが破れ、「差別」に限らずあらゆるテーマで正否の転覆が始まっている。今年をそんな年として記憶することが、いまきわめて大切だと思う。
参考記事:イラストは6巻31話



編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年8月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください







コメント