黒坂岳央です。
作家の小川哲氏が、「東京というゲーム」という投稿をしていた。非常に興味深い。

小川氏の投稿を要約すると、こういうことになる。有名大学を出て一流企業に入り、ブランド品を身につけ、港区のタワマンに住み、自慢できる相手と付き合う。「成功者と思われるためのアイテム」を集め、他の参加者から羨望を得た者が勝つのが東京というゲームだ。
これは現代社会における「幸福」と「幸福だと思われること」の混同として描いているのだろう。自分はこの話が非常に面白く、本質的だと感じた。
※最初に断っておきく。これは東京に住んでいる人を馬鹿にする話ではなく、「他人からどう見られるか」を人生の得点にしてしまった人たちのことである。
下町に住み、地元を愛し、心底親切で人懐っこい人もたくさんいる。仕事ができ、尊敬できる優秀な人もいる。自分が言っている「東京ゲーム」のプレイヤーは、そういう人たちのことではないことをハッキリいっておく。

joka2000/iStock
他人から「成功者」と思われるゲーム
東京というゲームは、評価の基準が自分の内側ではなく、他人の視線にある点が問題だ。東京タワーが見える部屋に住んでいるか?周囲に自慢できる異性と結婚しているか?有名大学を卒業しているか?高学歴か?年収は?
本来、こうしたパラメーターは自分の人生を充実させるための手段だったはずだ。ところが東京ゲームに参加すると、いつの間にか「他人にどう見られるか」を測るための課金アイテムになりさがる。
そしてあまり言いたくないが自分自身、情けないことにかつてはこのゲームにかなりハマっていた。
できるだけ名前の知られた会社で働きたいと思っていたし、周囲に「すごい」と思われたいと背伸びしてゴールドクレカを契約して財布に見えるようにして出したこともあった。「どこに住んでるの?」と聞かれて答えたら「治安とか大丈夫?」と笑われて「いつか一等地に住みたい」と思ったこともある。
元々は東京のことなんて何1つ知らないお上りさんの一人だった自分も、周囲がプレイする東京ゲームに感化され、熱中してしまった時期があった。
東京には課金アイテムが多くある
確かにこのゲームには実利がある。学歴も勤務先も住所も、相手の中身を検証するコストが高い場面では、低コストで信用を伝えるシグナルとして機能する。採用でも与信でも結婚市場でも同じだ。20代でこのゲームに課金するのは、少なくとも投資としては合理的である。
事実、上京したばかりの自分は何も持たない「ゼロの人間」で日雇労働者向け施設に住んでいたので、他者から何も持たない人間だというシグナルになっていた。
問題は住所を答えた瞬間、相手の態度が変わったことだった。中身を検証するコストが高い相手にとって、東京の住所は最も安い判定材料である。シグナルには実効性があるからこそ人は課金する。
問題はそれが「承認欲求の道具」に成り下がった時だ。背伸びしてタワマンに住むという、3秒間のアテンションを取るために払うコストはまったく見合わない。どうでもいい相手にどうでもいい自慢をする経済合理性はゼロに近い。いや、コスト分大きなマイナスだろう。
そして冷静になるとバカバカしいこのゲームを、東京という場所に身を置いていると、抜けるのは意外と難しいという問題がある。
なぜなら、東京では人間関係の中で相手を評価するときに、本人の内面や人生観ではなく、このゲームのランキングで値踏みする場面が少なくないからだ。住んでいる場所や学歴、年収や勤務先が履歴書となってしまう。この力学で回る地に身を置くと、相手から自分もそのランキングを意識するようになるので必死にやらざるを得なくなるわけだ。
承認欲求に人生を捧げるな
筆者は、このゲームには二つの意味で問題があると思う。
一つ目は、自分の人生をプレイしていないことだ。マズローの欲求段階説で言えば、「他人から認められたい」という承認欲求は、自己実現より下の段階にある。「羨ましがられたい」というの承認欲求だ。
もちろん承認欲求そのものが悪いわけではない。だが「自分はどう生きたいか」より「他人から成功者と思われたい」が上に来た瞬間、その人は自分の人生を生きていない。
そしてもう一つ。そもそも、他人はあなたに興味がない。それもまったくといっていいほど。「大企業に勤務している」といえば、相手は「すごいね」と思う。高級マンションに住んでいると知って、「いいな」と思う人もいる。
だが、その人は3秒後には自分の仕事、自分の家庭、自分のスマホ、自分の人生を考えている。目の前の人間の成功を24時間反芻しているわけではない。
ところが、東京ゲームのプレイヤー本人だけは、自分の成功を何度も確認する。一番長くその成功の余韻に浸っているのは本人なのだ。
でも他人からの羨望なんて、極めて刹那的。数秒間のアテンションを取るために、何十年も人生を消費し、維持費の請求書を見て「生活が苦しい。人生が苦しい」といっている。これが東京というクソゲーだ。
独立を機に、東京ゲームを降りた
自分は、独立を機にこのゲームから降りた。今でも仕事や遊びで東京にはよく行く。東京が嫌いになったわけではなく、仕事をする場所として東京に大きな価値があるし街としては大好きだ。東京を山手線内側を歩きすぎて、地理はほぼ頭に入っている。
一時期、子どもの教育を考えて、東京都内に住むことも真剣に検討したことがある。だがやめた。自分は二度と東京ゲームをプレイする気はない。
東京で働く必要があり、その場所に住むことで仕事上のメリットが大きい人なら東京に住めばいい。勝負する場所としては東京は素晴らしいし、自分も素晴らしい人との出会い、魅力的な仕事に人生を救われたのでものすごく感謝している。若い頃、東京を戦場にして良かったと思っている。
だが、東京都内で常勤する必要がなくなった今、自分にとってもうこのゲームはプレイする価値はなくなった。
そしてゲームを降りた今、面白いことが起きた。他人との比較がなくなると、自分自身との比較が始まったのだ。自分は今、「去年の自分より成長したか」「過去最高を更新できたか」「毎日を楽しめているか」ということにこだわっている。これがまた面白い。
昨日の自分より少し上に行き、去年できなかったことができるようになると人生は楽しくなるし、未来も楽しみになる。
そしてこちらには他人が介在しない。東京タワーの見える部屋に住んでいるかどうかも関係ないし、どこの会社に勤めているかも関係ない。誰かが「すごい」と思われるかには本当にまったく興味がなく、むしろ「東京で勝てずに逃げた底辺オジサン」くらいに思われている方が気楽ですらある。
自分にとって興味があるのは東京ゲームではなく、人生ゲームなのだ。そのゲーム内で自分のランキングを自分で更新していくのは遥かに楽しい。しかも人生ゲームは面白さだけでなく実用性も伴う。
楽しい仕事をすれば明日起きることをワクワクして眠れるし、自分に快適な家に住めば日常が最高になる。
◇
これはもう、書く必要もないほどあまりにも当たり前すぎることだが、東京ゲームをプレイすると忘れてしまう本質がある。それは「自分の人生を生きることが人生で最も楽しい」ということだ。マズローの欲求段階説が伊達ではないのは、自己実現欲求は承認欲求より確実に上位欲求だと痛感させられる点である。
筆者はゲーマーとして30年以上、ファミコンの時代からずっと膨大な数のゲームを現在進行系で遊び続けてきたが、過去最大のクソゲーは間違いなく東京ゲームだったと断言できる。
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