京都御所紫宸殿が9年間見られなくなる?

京都御所の正殿である紫宸殿が、檜皮葺き屋根の葺き替えや耐震補強などをするために、30数年ぶりの大規模な整備工事が行われることになった。前回は、1989年と翌90年にかけて実施された。

京都御所紫宸殿 宮内庁HPより

10月の秋の特別公開(10月8~12日)後、約9年間かけて整備をする。今秋から2034年頃まで3期に分けて続き、檜皮葺きの屋根の葺き替えのほか、蔀戸や壁の塗り替え、階段の改修などが内容だ。耐震補強や防災設備の改修も行われる。工事期間中は、紫宸殿は素屋根で覆われることになる。

京都御所については、『誤解だらけの皇位継承の真実(増補改定版)』(清談社)や『地名と地形から謎解き 紫式部と武将たちの「京都」』(光文社知恵の森文庫)で説明しているので、その一部を紹介したい。

京都御苑と京都御所は別のもの

京都御苑は環境省の所管で、京都御所は宮内庁である。といっても、京都の市民でも2つの区別はつかないのだが、普通、京都御所と言われて石垣で囲まれている東西約700m、南北約1300mほどの広い空間は京都御苑である。そして、御苑の北西部にある東西約250m、南北約450mの築地塀で囲まれているのが京都御所である。御苑のなかには御所以外にもいろいろな施設があるが、ほとんどは空き地である。

しかし、このようになったのは、明治になってからのことである。それまでは、南禅寺や大徳寺のように、塔頭が並ぶ禅宗寺院のような趣だった。現在の御苑の門は昔からあったが、その両側には公家屋敷があり、内側と外側が明確に区別されていたのではない。そして、御所のまわりにも広い空間はなく、狭い道をはさんで公家屋敷になっていた。いまも、閑院宮家とか九条家が部分的に残っている。

ここには、平安時代に堀河天皇が即位前に住んでいた土御門東洞院殿があった。正親町(中立売)・東洞院・土御門(上長者町)・高倉の4つの通りに囲まれていた邸宅で、里内裏としてしばしば使われた。

とくに、持明院系(北朝)の本拠として栄えたが、足利義満が、これではほかの貴族の邸宅と区別がつかないと憂慮して、大幅に拡張し、現在の京都御所の規模ができた。

光格天皇が復興させた王朝風の御所

江戸時代中期までは、だいぶ書院造りの要素が入った普通の公家住宅のようだったが、光格天皇のときに火事で焼けたあと、復興を王朝風の規模と様式にしたいと希望され、松平定信が全面的にではないが、かなり天皇の要望に添った形で再建した(1790年)。

この建物は大火で焼けたが、安政年間である1855年に、ほぼ焼失前の通り再建したのが今日の京都御所なのである。儀式に使われるのが紫宸殿で、住居の主殿が清涼殿である。慶応3年には、このなかの小御所というところで、王政復古が決定された。

そもそも京都御苑の広大な空間は即位の御大典の実施を前提に確保されたもので、東京での御大典の実施で本来的な意味を失っている。そうした中で、大正天皇即位の御大典において仮設の饗宴会場が建設された跡地に、京都の王朝文化の雰囲気を採り入れ、また、京都の伝統産業の粋を集めた京都迎賓館が建設され、世界各国からVIPを迎えているのは意義深いことである。とても静かな環境で、ブッシュ米国大統領は、「私のテキサスの牧場みたいだ」と気に入ったそうである。

明治天皇は格別の愛着を京都に持たれ、晩年にあっても、もし許されるなら譲位して京都に戻りたいと仰ったと言われるほどであるし、その御陵を伏見桃山城の跡に設けるように指示されたほどだが、すでに孝明天皇10年祭に行幸されたときから「廃堕の状」を憂慮されていた。

即位礼を京都で行うことが定められた理由

さらに、右大臣として新政府の最大実力者だった岩倉具視は、1883年に「京都皇宮保存ニ関スル意見書」を建議し、「宮闕を保持して、民業の衰微を挽回するには、諸々の礼式を興し、他国の士民をして屡々この地に出入りせしむる方法を設くる」べきだとし、いくつかの提案を行った。

それを受けて、同年、「即位礼及び大嘗会の如き盛儀は、京都御所に於て施行せらるべき」ことが勅定され、1889年制定の『皇室典範』で「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と明記された。

ここで重要なことは、こうした決定が、なし崩し的に行われた東京遷都を確定させるために、東京と京都に首都機能を分担させ、また、京都の経済的な発展も明確に目的として意識して下されたものだということであり、本来、東京が首都である限りは動かすべからざる性格のものだったはずだということである。

そして、京都御所を保存するとともに、その周囲にあった公家の屋敷は買い上げて撤去し、石塁で囲んで公園化された。桂離宮、修学院離宮、さらに一時は二条城も離宮とされて(1884年から1939年)、宮内庁が維持した。

京都での即位礼や大嘗祭の実施は、サンクトペテルブルクへの遷都後もモスクワで戴冠式が行われているのにヒントを得たもので、即位礼・大嘗祭を京都で行い、そのことで世界から賓客を迎え、京都をアピールしていこうということが決められた。

戦後に失われた京都の「首都機能」

即位礼は京都御所紫宸殿で行われ、大嘗祭は仙洞御所跡地で、招宴は大正時には二条城、昭和時には現京都迎賓館の敷地となっている場所で行われた。

このことで、京都はいわば首都機能の一部を分担し、宮廷文化を維持し再生産する地としての性格を維持し、そのことで、国際的な観光都市としてのインフラの整備に成功し、伝統産業の振興にも絶大な効果があった。

ところが、戦後のどさくさで即位礼の京都での挙行についての皇室典範の規定が消されてしまい、平成の御大典は東京で行われた。いわば第二の遷都であった。平成と令和の即位礼の時は、京都御所紫宸殿にある高御座は解体された上で東京で使用され、御大典終了後は再び京都に戻されている。

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