沖縄県庁はどうして首里でなく那覇なのか

『誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改定版)』(清談社)を出版したのをきっかけに、沖縄関係の記事をときどき書いているが、本日は、どうして首里でなく那覇が県庁所在地になったかという話である。

首里ではなく那覇に県庁が置かれた理由

いまでは那覇市内の一部であるが、もとはそれぞれ別の町である。首里は海から少し離れた海抜120メートルほどの隆起珊瑚礁の丘の上にあり、琉球王国の王城があった町であり、那覇はその外港であった。語源は「漁場」ともいうが、仮説に過ぎない。沖縄も「沖の漁場」だともいうが不明。

琉球王国が廃止されたのち、首里が県庁とされなかったのは、旧王族の屋敷などを県庁として接収することが、首里の誇り高い貴族たちを刺激することをおそれたためであって、首里を冷遇しようという意図ではなかった。

首里城 HunterKitty/iStock

首里で第1候補とされたのは、中城御殿で、国王世子(皇太子)の邸宅である。1875年に、それまで首里城南方にあった旧邸から、龍潭の北側、首里大中町1丁目(のちの旧沖縄県立博物館敷地)へ新築移転していた。1879年の琉球処分時には、完成してまだ4年ほどで、大きさも十分だった。

しかし、そこには尚泰王の家族が居住していた。県が買い上げ、尚家を大美御殿へ移すことも検討されたが、旧士族層などの「人心」に悪影響を及ぼすとして断念し、「首里には中城御殿の他には適地がない」として、那覇に県庁を置くことにした。

つまり、琉球王国の記憶がある首里を避けたのでなく、遠慮したというわけだ。

沖縄那覇市 Sean Pavone/iStock

首里城と那覇の発展

首里と那覇はライバル関係にあったが、昭和29年に首里市は那覇市に合併された。戦争で破壊された首里城跡には、琉球大学が置かれ、守礼門だけが再建された。大学の郊外移転ののち、国営公園として整備され、王城が再現された。その後、令和元年の火災で焼失したが、再建工事が進んでいる。

屋根瓦の赤と漆喰や石垣の白が強いコントラストを示す。15世紀から王城だったが、戦争で焼けたのは、1715年に薩摩の援助で竣工した城そのものだ。復元に際しては、元の姿より豪華にカラフルにしたようで、再建にあたっても議論になった。

那覇は首里の外港で、王国時代には島々が点々としていたが、現在では埋め立てられている。外側の珊瑚礁は健在だ。戦前の那覇の繁華街は国道58号線より西側で、中国系住民が住んだ久米地区もこのあたりだった。沖縄戦で壊滅的打撃を受けたのち、県庁と首里を最短距離で結ぶ国際通りから再建が始まり、これが中心繁華街となり、観光客で賑わう。

守礼門と沖縄県庁の歴史

2000円札の図柄になっている「守礼門」の「守礼」も、中国皇帝への忠誠を褒められて与えられた言葉だ。こんなものをお札にしたのは大馬鹿である。

守礼門 Yuzuru Gima/iStock

なお、現県庁は大正時代の1920年から現在の地にあったが、戦争で焼け、戦前の沖縄県庁は1920年に泉崎へ移転したが、沖縄戦で焼失した。戦後の行政は石川、佐敷などを転々とし、1949年には那覇・久米の旧上山国民学校、天妃国民学校付近へ戻ってきたが、1952年4月に全琉球を統括する琉球政府が発足すると、本格的な政府庁舎が必要になり、米国民政府(USCAR)が戦前の県庁とほぼ同じ泉崎の敷地に新庁舎を建設した。1953年4月28日に落成した。

琉球政府庁舎から現在の県庁舎へ

1・2階を琉球政府、3・4階を米国民政府が使用し、屋上には星条旗が掲げられた。入口には「亜米利加合衆国依り琉球の住民へ献呈さる」という銅板まで取り付けられていた。

1978年に県庁舎整備委員会が設置され、1983年2月に県議会全員協議会へ「庁舎建設計画」が示され、同年12月26日に「沖縄県庁舎建設基本構想」が決定した。1986年に着工、行政棟は1990年に完成した。設計は黒川紀章だった。

復帰時には、宜野湾市に移したらどうかという案もあったが、実現せず、そのかわりにコンベンション・センターが設けられている。

■


誤解だらけの皇位継承の真実(増補改定版)


系図でたどる日本の皇族


誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改定版)

【関連記事】

 

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント