「女性天皇8人」が誕生したそれぞれの裏事情を謎解き

宮内庁が定めている皇統譜では、推古天皇から後桜町天皇まで8人(重祚が2人いるので10代)の女性天皇が即位している。

愛子内親王 宮内庁インスタグラムより

女性天皇は「つなぎ」だったのか

それを「つなぎ」だというと、2つの反論がある。1つは、彼女たちはお飾りではないというものだ。それは、男性の天皇でも傀儡もいるし、独裁者もいるが、江戸時代の2人については、まさにつなぎでしかなかったので、そのイメージがあるのだろう。しかし、皇位継承のうえではつなぎだということと、実力がないこととは関係ないから、議論自体が無意味だ。

その次に、古代は男女平等で皇族のなかの実力者が即位したし、継承は双系継承だったというべきだというのだが、それなら推古以前に女帝がおらず、その後も例外的であり、男系男子でない女系天皇などいないことの説明にならない。

私は、①古代にあっては、だいたい30歳くらいにならないと天皇(生前退位はなく終身)にはならない不文律があり、②普通は成人した傍系の男子が中継ぎになったが、③神功皇太后のように女性が跡取りがしかるべき年齢に達するまで女将さん的に政務を司ることはあったものの、正式には即位しなかったが、④仏教伝来などで識字能力も向上し、肩書きへのこだわりが生じて、推古天皇は正式に即位した、つまり現代的にいえば、社長になったと解釈している。

そして、しばしば、皇統を伝えていくべき本流の皇子が30歳になっていないので、途中に傍系が入らないようにするために、女性天皇が登場したのである。そのあたりは『誤解だらけの皇位継承の真実』(清談社)で解説したので、そのエッセンスである。

推古・皇極・斉明――古代の女性天皇

推古天皇以前に、その祖父の継体天皇は即位するにあたって仁賢天皇の手白香皇女と結婚し、生まれた欽明天皇が皇統を引き継ぐべきと考えられたが、若年だったので、異母兄の安閑・宣化両帝が中継ぎとなった。

宣化天皇が死んだとき、欽明天皇はまだ若いので山田皇女(仁賢天皇皇女・安閑天皇皇后)に譲りたがったが、群臣に推されて即位している。もしこのとき、山田皇女が受けていたら最初の女帝になっていたはずだ。

欽明天皇のあとは、4人続けてその子が天皇となった。敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇である。

崇峻天皇が蘇我馬子の刺客に斃れたあとは、欽明天皇の孫世代では、敏達天皇の長子の押坂彦人大兄皇子、敏達と推古の子である竹田皇子、用明の子である聖徳太子がいたが、このうち聖徳太子は20歳以下であり、押坂彦人大兄皇子は30歳前後、竹田皇子はその中間くらいだった。

そこで、唯一、蘇我氏の血を引かない押坂彦人大兄皇子を排除するために推古天皇が誕生した。『日本書紀』は聖徳太子が皇太子となったとするが、竹田皇子との関係は不明である(すでに死んでいた可能性もある)。

そして、意外にも推古天皇が75歳まで生きたので、聖徳太子は先に死んでしまい、押坂彦人大兄皇子の子である舒明天皇が即位した。舒明天皇が死んだとき、皇子たちは30歳に達していなかったので、皇極天皇(舒明天皇の兄弟の娘)が即位した。

推古天皇像(土佐光芳画:Wikipediaより=編集部)

蘇我氏としては母が蘇我氏である古人大兄皇子を後継に望んだが、中大兄皇子も有力で、これも蘇我入鹿暗殺のきっかけであろう。

しかし、この段階でも中大兄皇子は30歳になっていないので、皇極天皇の弟の孝徳天皇が即位した。さらに、孝徳天皇が死んでも、中大兄皇子が若かったので、母の皇極上皇が斉明天皇として重祚した。

そして、九州で斉明天皇が死んだときは、しばらく空位にしてから満を持して天智が天皇になった。

持統・元明・元正・孝謙――皇統を守るための即位

天武のあとは持統天皇との子である草壁皇子にしたかったが、若すぎたので持統天皇が政務をした。しかし、草壁皇子が若くして死んだので、長く空位にしておけず持統が即位し、草壁皇子と元明天皇の子である文武天皇の成長を待った。

江戸時代に描かれた持統天皇 勝川春章画『錦百人一首あつま織』 跡見学園女子大学図書館所蔵 Wikipediaより

そして、持統は自分が死んでしまうと高市皇子などの系統に皇位が移りかねないので、16歳の文武天皇に前例を破って譲位したが、文武天皇は病弱で若死にしたので、母である元明天皇が即位して、文武天皇の子の聖武天皇の成長を待った。

さらに、元明天皇は高齢の自分が死ぬと長屋王などが即位する可能性があったので、娘で未婚の元正天皇に譲って時を稼ぎ、聖武天皇を24歳のときに即位させた。

聖武天皇と光明皇后には基皇子がいたが夭折した。そこで光明皇后は娘の孝謙天皇を皇太子にしたのだが、このときの思惑とその後の聖武、光明、孝謙らの将来ビジョンは推理するしかない。

私はこの段階で、聖武や光明は、将来は聖武と別の妃との子である安積親王の系統に皇統を継がせることを否定したのではないと思う。ただ、孝謙をいったん天皇にして、皇位継承指名権を孝謙に持たせて将来を保護したかったのではないか。

そうこうしているうちに安積は死んだので、孝謙は天皇になった。私はそのあとは、無難な天武天皇の子孫をつなぎにして、いずれは、聖武と別の妃の子である不破内親王や井上内親王の子孫に収斂させるつもりだったと思う。

そこで、まず淳仁天皇(『日本書紀』を編纂した舎人皇子の子)を即位させたが、いうことを聞かないので、上皇が怪僧道鏡と組んで政変を起こし、自分で重祚した。

しかし、道鏡事件があって、その直後に称徳天皇は死んだので、井上内親王の夫である光仁天皇が即位したが、その段階では他戸親王(この時点では若年なので即位はできなかった)の即位が予定されていたとみられる。ただ、どちらが仕掛けたのか不明だが、井上内親王と他戸親王と天皇は対立し、母子は殺されてしまった。

明正・後桜町――江戸時代の女性天皇

次に、江戸時代になって、後水尾天皇のあと明正天皇が即位する。後水尾天皇と徳川和子には2人の親王と5人の内親王がいたが、親王たちは夭折した。そこで、天皇は側室を置きたかったが、幕府が許さない。

そこで天皇は和子との娘の明正天皇に電撃譲位して、行動の自由を得て、多くの側室とのあいだに子をなした。そのうち、後光明天皇が成長したので明正天皇は譲位した。つまり、徳川の血を引く女性天皇は誕生したが、後水尾天皇はその先は自分の男子に皇統を継がせることに成功したのである。

明正天皇 御歴代百廿一天皇御尊影より Wikipediaより

ちなみに、現在の皇室は霊元の皇子である東山天皇の子孫で、後西天皇の子孫が有栖川宮家である。

皇位は、明正、後光明、後西、霊元のあと、霊元天皇の子孫が東山、中御門、桜町、桃園と続いたが、桃園が死んだときにその子の後桃園が5歳と幼少だったので、つなぎに、桜町の内親王の後桜町天皇が久々の女帝となり、後桃園が13歳になったので譲位した。

18世紀 ごろに描かれたとされる後桜町天皇像 Wikipediaより

こうして見て分かるとおり、女帝はあくまでも、正統な男系男子での継承を守るための措置であることが大事なのである。


誤解だらけの皇位継承の真実(増補改定版)


系図でたどる日本の皇族


誤解だらけの沖縄と領土問題(増補改定版)

【関連記事】

コメント投稿をご希望の方は、投稿者登録フォームより登録ください。

コメント