琉球王国の王位はどう継承されたのか:第二尚氏410年から考える日本の皇統

皇位継承をめぐる議論が続く現在、日本とは異なる王統が、歴史の中でどのように受け継がれてきたのかを振り返ってみるのも興味深い。そこで今回は、かつて沖縄に存在した琉球国(通称「琉球王国」)の王位継承を取り上げたい。

琉球国の第二尚氏は、尚円王から尚泰王まで19代、約410年間続いた。400年以上続いた王統と聞くと、父から長男へ整然と王位が受け継がれたように思える。しかし実際には、弟、五男、次男、孫、別家の王族、さらには4歳の幼児が国王に即位するなど、時代によって王位継承のあり方を変えながら、1879年の琉球処分まで王統が続いた。その継承の歴史をたどることで、長く続く君主制において、継承のあり方がどのように形づくられてきたのかを考える一つの手がかりにもなる。

首里城 HunterKitty/iStock

第二尚氏は、王朝交替から始まった

第二尚氏以前の琉球には、舜天王統、英祖王統、察度王統、第一尚氏王統など複数の王統があったと王府史書は伝えている。ただし古い時代ほど同時代史料は少なく、伝承に依存する部分も大きい。

15世紀の第一尚氏だけを見ても、約60年余りで7代を数え、その途中には王位をめぐる争いも起きた。そして1469年、尚徳王が薨去すると政変が起こり、第一尚氏の有力重臣だった金丸、後の尚円が王位についた。王府の正史は「群臣が推戴した」と描くが、政治史的には第一尚氏の王位継承者が排除され、有力重臣が王権を掌握した王朝交替と見ることができる[1]。

ここは日本の皇統との大きな違いである。宮内庁が公表する天皇系図は神武天皇を初代として現在まで一つの皇統として整理しており、途中で父子継承だけでなく兄弟間や傍系への継承を含みながらも、別姓の新王朝が成立したという整理にはなっていない[2]。古代の系譜をどこまで歴史学的に確認できるかという問題は別にしても、この長期的な「皇統の連続性」は世界的にも際立った特徴である。

13歳の世子より、成人した叔父が王になった

第二尚氏は、二代目から早くも継承問題に直面した。1476年に尚円王が薨去したとき、後に尚真王となる世子はまだ13歳ほどだった。翌年に即位したのは、尚円の弟・尚宣威である。

当時は「国王の世子であること」と「今すぐ国王として政務を担えること」が必ずしも同じではなかった、と考えると理解しやすい。ところが尚宣威王は半年ほどで退位する。王府史書は、即位をめぐる祭祀で神女たちが尚真を支持する神託を下し、尚宣威王がこれを天意として受け入れたと伝える。こうして尚真は第三代国王となった。

第二尚氏成立直後には、血統上の順位だけで次王が自動的に決まるほど制度が固まっていなかった。年齢、政治力、宗教的権威、王族内部の力関係などが王位継承に入り込む余地が大きかったのである。

五男が王になり、長男の系統は外された

その尚真王は約50年間在位した。しかし次の王となった尚清は長男ではなく五男だった。しかも尚清は父王の死後に突然選ばれたわけではなく、生前から「琉球国中山王世子尚清」と称されていたことが確認できる。

尚真の長男・尚維衡は正妃の子だった。ところが1501年の玉陵碑には、尚維衡とその子孫が王陵の被葬資格から外されたことを示す記載がある[3]。一方、側室の子で五男だった尚清の系統が、その後の王統の中心となった。

この段階でも「正妃の長男だから自動的に次王」という単純な制度ではない。その後の尚元、尚永もともに次男であり、長男が側室の子であたためか、次男が王位についた。出生順位だけでなく母の身分などを含む王族内部の秩序が作用していたと考えられる。

図1 第二尚氏王統の系譜 [1][3][6]

別家から国王を迎えた

1588年、尚永王が男子を残さず薨去した。翌年に第七代国王となったのが、浦添尚家の尚寧である。

ここで注意したいのは、「首里の王家から男子がいなくなったので、遠い親戚を探してきた」という話ではないことである。尚永の弟など、尚清につながる男系男子はほかにも存在した。

尚寧の父系は、かつて王位継承から外れた尚真の長男・尚維衡につながる。一方、尚寧の母は尚元王の娘で、尚永王の姉妹にあたった。したがって尚寧は尚永の甥である。さらに尚永の娘を正室に迎えており、尚永の娘婿でもあった。父系では浦添の別家、母系では首里王家の近親、婚姻でも王家と極めて近い人物だったのである[4][5]。

日本の皇統史に引き寄せて考えるなら、ここで重要なのは「直系が途絶えたら王統そのものが終わる」とは限らない点である。日本の天皇系図にも、直系の父子だけでなく、兄弟や傍系を経て皇位が継承された局面がある[2]。系統が枝分かれしていても、同じ皇統に属する者として継承をつなぐという発想は、長期の君主制を考えるうえで重要である。

ただし尚寧の場合、王位を担う家は首里系から浦添系へ移った。その後、1609年の薩摩侵攻を経て、1621年に尚豊が即位すると王位は再び首里系へ戻る。ここまでの第二尚氏には、まだ「どの家から王を出すのか」という政治的選択の余地が残っていた。

17世紀後半、王位継承は変わり始める

大きな変化が見えるのは尚質王、尚貞王以降である。尚貞の長男で世子だった尚純は、父より先に亡くなった。初期の第二尚氏なら、別の息子や成人した王族へ王位が移っても不思議ではない。

しかし1710年、尚貞王の後を継いだのは別の息子ではなく、亡くなった尚純の長男・尚益だった。つまり祖父から孫へ王位が移ったのである。その後も、尚穆王の世子・尚哲が父より先に亡くなると、尚穆の別の息子ではなく尚哲の子・尚温が王となった。

「その時点で最も適任の成人男子を選ぶ」という考え方よりも、「すでに世子となった長男の系統が継承順位を受け継ぐ」という原理が強くなったことが分かる。

13歳では王になれなかったのに、4歳は王になった

この変化を最も鮮明に示すのが、1803年に即位した尚成王である。尚温王が薨去した時、その世子尚成はわずか4歳だった。それでも成人した別の王族を選ばず、尚温王の長男である幼児をそのまま国王にした。

1477年には、13歳ほどだった尚真を差し置いて成人した叔父・尚宣威が即位した。ところが約三百年後には、4歳でも継承順位にある者が王になる。王位継承の原理が大きく変わったことが分かる。さらに最後の国王・尚泰も6歳で即位した。

国王が幼くても、摂政や三司官をはじめとする王府の統治機構が政務を担うことができる。そうなると、「誰が最も政治能力のある人物か」と「誰が正統な王位継承者か」を切り離すことができる。王個人の能力より、王位という制度と継承順位そのものが強くなったのである。

現在の日本の皇室と並べてみる

もちろん、近世の琉球王国と現代日本をそのまま同列に論じることはできない。しかし比較すると一つの共通した論点が見える。君主制が長く続くほど、「その都度もっとも有能な人物を選ぶこと」と「誰が正統な継承者なのかを制度として明確にすること」は別の問題になっていく、という点である。

第二尚氏では、この制度化に数百年を要した。初期には成人した叔父、五男、別家の王族が選ばれる余地が大きかった。それが後期には、父より先に亡くなった世子の子が継ぎ、4歳でも6歳でも順位に従って王となる体制へ変化した。

日本の皇統は、第二尚氏の410年をはるかに超える時間軸で継承されてきた。宮内庁の公式系図自体、父子継承だけではなく、兄弟継承、女性天皇、傍系からの継承など多様な経路を示している[2]。それでも「皇統」という枠組みを維持してきたことは、日本の歴史を考えるうえで極めて特徴的な事実である。

長い王統とは「例外のない王統」ではない

第二尚氏410年を振り返ると、王朝はクーデターとも評価できる政変から始まり、弟が継ぎ、五男が継ぎ、次男が継ぎ、別家から王を迎え、祖父から孫へ移り、幼児にも王位が渡った。それでも第二尚氏という王統は続いた。

この歴史から見えるのは、長い王統とは、必ずしも「父から長男へ」という一つの形だけを反復した王統ではないということである。重要だったのは、時代ごとの政治状況の中で、誰を正統な次の王と認めるのかを時代に合わせて柔軟に対応し、それを次第に制度として安定させていったことだった。

そして琉球の410年を横に置いてみると、日本の皇統がいかに長い時間の中で継承を柔軟に対応してきたかという、その歴史的な特異性も見えやすくなる。

第二尚氏19代を「この王は何をしたのか」ではなく、「なぜ、この人が次の王になったのか」という問いから見る。そこから浮かぶのは、大国に挟まれ様々な危機を乗り越えながら約400年間王統を存続させてきた東アジアの小国の歴史であり、君主制が長く続くために「血統」「正統性」「制度」がどのように関係してきたのかという、現在にもつながる歴史の問題である。

【参考文献・資料】
[1] 国営沖縄記念公園 首里城公園「琉球王国とは」
[2] 宮内庁「天皇系図」(皇統譜に基づく系図)
[3] 文化庁「国指定文化財等データベース―玉陵」
[4] 豊見山和行「琉球王国の王位継承をめぐる一考察」『琉球大学教育学部紀要』第54集
[5] 浦添市・うらそえナビ「家康に会った琉球国王・尚寧」
[6] 内閣府沖縄総合事務局 国営沖縄記念公園事務所『首里城事業概要』「歴代王統図」
[7] 琉球大学附属図書館『歴代国王世系之図』宮良殿内文庫 MI021

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