天空の山城へ、息を切らせて。備中松山城で出会った風景

9月12日 名古屋から車を飛ばして岡山県高梁市に来ました。普段なら岡山まで新幹線で来てそこから特急やくもで来るところなんですが、今回立ち寄りたい場所は車でないとなかなか行きづらい場所。6時間超かけての到達です。つかれたー。

高梁市は町を見下ろせる臥牛山に築城された備中松山城の城下町として栄えました。戦国時代の三村元親の代には、城は臥牛山全体に城砦が広がっていたといいます。現在残る天守閣などは臥牛山の中でも小松山と呼ばれる山にあり、これが松山城の名の起源となっています。

備中松山城は天守が現存する12城の中で唯一の山城。条件が良ければ雲海も見られため多くの観光客が訪れる人気の城です。ただ、山城だけあってアクセスはしにくく、土日は途中の城まちステーションまで車か徒歩で来てそこからふいご峠までシャトルバスで行き、最後はこの山道を登ります。駅から城まちステーションまでも結構な登り坂ですが、ここまでの公共交通機関はありません。今回ここまでマイカーで来た理由の一つがここにあります。

ひいひいぜいぜい言いながら山道、遊歩道、階段を登っていきます。

戦国の武士たちはろくに整備もされていない道を武器を背負って登っていたのですよね。攻め入る方も大変ですが、出入りする武士もさぞ大変だったことでしょう。備中松山城に限ったことではないですが、山城を護った人たちの苦労を知ると本当に頭の下がる思いです。

さすがに不便なので普段の藩政は麓で行っていたそう。備中松山城が廃城令の際に破却を免れたのもあまりに不便なところにあって解体が面倒だったからだそう。難攻不落の山城であったからこそ、現代にその歴史を伝えることができました。

苦労して山を登った後に高い石垣が現れます。疲れ切った兵士が石垣の上から攻撃されたらたちまち粉砕されてしまったことでしょう。にしても、本当にこんなところまでどうやってこんな石を運んできたんでしょうね。

左手の三の平櫓東土塀は築城時から今も残る土塀。

現存最古の石垣などを横目に見ながら最後の階段を登ります。この日はそんなに暑い日ではなかったんですが、それでももう汗だらだらです。

シャトルバスを降りて20分ほど。ようやく天守に到着しました!多くの城は高台にあって、登り坂を登ることはよくあるのですが、これだけの山道を登ってたどり着いた城は初めてです。達成感ハンパないです。

戦国時代、三村元親は毛利一族によってここを攻め落とされます。江戸時代に入り、城主は何代か入れ替わっていますが、その中には赤穂浪士で知られる浅野内匠頭と家老・大石内蔵助も名を連ねています。

城の中はちょっとした資料館になっています。

他の天守にはない設備として、囲炉裏がありました。山城は冷えるからなんでしょうかね。寒さに兵の戦力をそがれないようにするための工夫でしょう。

窓の外からは高梁の町が一望できます。ここから登ってくる敵兵を見張っていたのでしょう。高梁はかつては松山と名乗っていましたが、明治になり、政府から「松山って愛媛にも埼玉にも同じ名前あるし、名前変えてよ」と言われ、ここを流れる川の名を取り、明治4年に高梁と改名しています。城の名と町の名が違う理由はここにあります。

天守の裏手にある二重櫓。天守を含めてこちらも国の重要文化財に指定されています。

さて、備中松山城で忘れてはならないのが、城主「さんじゅーろー」。もともとは個人宅の飼い猫だったのですが、平成30年7月の豪雨の際に行方不明となり、その後三の丸付近で保護された猫で、そのままここに住み着いたことで猫城主を名乗るようになりました。

現存12天守のうち唯一の山城、備中松山城。たどり着くには山の中を歩く必要がありますが、道中から望む高橋の街並みは美しく、洋裁のように築かれた石垣は大変見ごたえのあるものでした。

秋の早朝は雲海を見ることができる機会も多くなるようです。雲海とともに城を見るためには別の山にもぼらないといけないようですが、次の機会にはぜひそちらにも行って雲海に烟る城の姿も見てみたいと思いました。


編集部より:この記事はトラベルライターのミヤコカエデ氏のnote 2026年9月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方はミヤコカエデ氏のnoteをご覧ください。

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