
いまや「AI格差」が至るところでいわれ、「AIを武器にしないと脱落する」といわれます。
こんな状況に、一石を投じる記事が話題になってます。
先週2026.9.24(木)、東京大学の酒井邦嘉教授が日本経済新聞 「経済教室」に寄稿した記事です。
本記事で酒井教授は言語脳科学者の立場で、教育の現場でAIに頼ると読書習慣が減り、学生の読解力が大幅に低下し、能力向上の機会を失うリスクを指摘しています。
そして、カリフォルニア大バークレー校法科大学院が8月の新学期からAIを全面禁止にした報道も紹介しています。
『単位取得のための論文課題や試験でAIの利用をほぼ全面的に禁止する。AIを使った論文の下書きだけでなく、アイデア出しのブレーンストーミングや構成の提案、法律などの要約を認めない。法学修士のコースは非英語圏出身の学生も多いものの、文章の翻訳や文法ミスなどを正す校正も禁じる』
なんと、アイデア出し(いわゆる壁打ち)も禁止なのです。
さらに酒井教授はこう述べています。
『(「AI格差」という言葉が連呼されるが)実際には、全く逆の格差が生じると予想される。AIに依存して自分の頭を使えなくなる人々と、AIを使わないことで自分の能力を活かし続ける人々だ。』
本記事で思い出したのが、AI登場のはるか前に、自分のライフワークである写真で、私が20代の時に経験したことです。
私は大学の新卒で日本IBMに入社しましたが、20代の頃は「プロの写真家になりたい」と考えていました。
「若気の至り」かもしれませんが、当時は真剣に考えていました。
そこで目標として「30歳までに銀座の写真ギャラリーで写真展を開催しよう」と考えました。
キヤノン、ニコン、富士フイルムなどの写真ギャラリーでの写真展は、無料で開催できますが、審査があります。プロもアマチュアも、対等に審査されます。
こうした厳しい審査を通過した作品が、これらの写真ギャラリーで展示されます。
無謀にも20代の会社員が、これに挑戦しようとしたのです。
審査では、特定のテーマで30点以上の写真作品を提出する必要があります。
落選が続きました。
落選したのは、未熟な作品が多かったからです。
しかし自分の思い入れが強すぎて、自分ではどこがどう悪いのか、なかなか気づけません。
相談する人もいないので、当時は自分の作品を眺めて、ウンウン悩むことを数年間続けました。
振り返ると、写真に関わる時間のうち、撮影は1/4で、残り3/4はこうして自分の作品を見て考える、という時間でした。
苦しい作業でしたが、1年、2年と時間をかけてこの作業を続けると、徐々に「ここが悪いのか…」と見えてきます。
それは「なぜこんなことに気づかなかったのか」というような単純なことだったりします。
しかし言葉にするとシンプルでも、自分で考えて気づくことが大切なのです。
結果、何とか審査に通って写真展を開催。
その後も写真展を数回行いましたが、審査は一回で通るようになりました。
数年前のこと。こうして若い頃の私がやってきたプロセスを、見事に言語化した本に出会いました。
芸術家を目指す若者に愛読されてきた『アート・スピリット』という、100年前に刊行されたアートでは定番の教科書です。著者は画家であり、美術学校の教師を務めたロバート・ヘンライです。
ヘンライはこう述べています。
『導き手になるのは自分だけである。(中略)知るべきこと、進むべき道は、自分で手探りするしかない。』
『自分で自分を教育するのは容易なことではない。(中略)できるかぎり深く、自分自身と付き合うことだ。自分に問いかけよう。そのうち、なんらかの答えが返ってくるだろう』
つまり、何かを創造するには、自分自身との孤独な対話を続けることが必要なのです。そうして得た力は、大きな財産になります。
もし私が悩んでいた時に、有能な写真の先生が、私の未熟な写真作品を一目見ると…
「これとこれはダメだね。この作品はここをこうすると良くなるよ」
…と、その場ですぐ的確なアドバイスいただけるかもしれません。
そこを直せば、恐らくいい作品になるでしょう。でもこれでは、本当の力は付かないのです。
自分との孤独な対話は、言葉になる前の様々な感情や思い入れが渾然一体となった状態で、思考の沼にドップリと漬かって、そこで溺れかけながら、かすかに見える出口の光を求め、答えを探していく作業になります。
そうして得た結論は「当たり前の結論」であることも多いのです。
しかしその「当たり前の結論」を、他人から言われて「言葉」として理解するか、その結論に至る「ドロドロとした苦しい思考過程を経て、膨大な暗黙知を積み重ねた末に獲得した身体知」として自分で理解するのかは、全く違います。
これが「身体知化する」ということです。
先生から指摘されるアドバイスは、的確な場合も多いのですが、こうした自分の内部でのドロドロとした思考過程を経ていません。
美術教師であるヘンライ自身、こう述べています。
『自分で自分を教育せよ。私に教わろうと思うな──私をせいぜい利用し、私に利用されるな』
『自分の作品をじっくり眺め、その作品が語るのは、きみの内部から出てきた声であることを理解せよ』
なんと教師であるヘンライ自身が「自分が教えた通りにするな。自分の中で対話せよ」と言っているのです。
私も20代後半でこうした「自分で自分を教育する」というプロセスを時間をかけて徹底的にやったことが、その後のビジネスや執筆でも活きていることを実感します。
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先の酒井教授の指摘も、こうした私の体験を踏まえると、その真意が見えてきます。
AIは、実に便利です。
業務のプロフェッショナルが使えば、思考の補助ツールとして大いに活用して、生産性を上げることもできるでしょう。
しかしスキルを育成する教育の現場で必要なのは、「孤独な対話」です。
生徒がAIを使うと、こうした自分との孤独な対話ができなくなります。
対話の相手を「AI」から「自分自身」に切り替えて、言葉にならないドロドロとした思考の沼、いわば暗黙知の世界に、ドップリ漬かる必要があるのです。
しかし振り返ると、これはほんの数年前、AIを使わなかった時代の私たちがやっていたことでもあります。
こうしたことを踏まえると、酒井教授が指摘した…
『(「AI格差」という言葉が連呼されるが)実際には、全く逆の格差が生じると予想される。AIに依存して自分の頭を使えなくなる人々と、AIを使わないことで自分の能力を活かし続ける人々だ。』
…の真意が、見えてくるのではないでしょうか?
いま、多くの人が「わからないことがあるとすぐAIに聞く」という行動を始めてます。
しかしAIを使うべき場面と、使ってはいけない場面もある事は、理解しておいてよいかもしれません。
編集部より:この記事はマーケティング戦略コンサルタントの永井孝尚氏のオフィシャルサイト(2026年9月29日のエントリー)より転載させていただきました。永井孝尚氏のメルマガのご登録はこちらから。







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