天正12年(1584年)10月に、秀吉は従五位下・左近衛権少将、翌月には従三位・権大納言になった。さらに、天正13年(1585年)7月には、関白になって「殿下」などと呼ばれるようになり、寧々も従一位北政所、母のなかも従一位大政所という肩書きをもらった。この官位の問題や将軍とどっちが偉いかを『地図と閨閥で読み解く戦国地政学 織田・豊臣・徳川の盛衰』(さくら舎)から読み解く。
秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく関白になったのか
秀吉が関白になったのは、二条昭実と近衛前久の子の信尹が関白を争ったのにつけ込んだものだ。
秀吉は征夷大将軍になりたかったが、備後鞆の足利義昭に猶子にするのを断られ、仕方なく関白になったとか言い出したのは、徳川の御用学者だった林羅山である。可能性の打診くらいはあったかもしれないが、信長も征夷大将軍になりたがったことはなく、ちょっと考えにくい話で、林羅山が将軍の権威を上げるために言ったものだろう。
しかし、征夷大将軍は清和源氏しかなれないわけではない。信長に朝廷から関白か太政大臣か征夷大将軍のどれでもいいからなってくれと、御下問があったといわれるくらいである(三職推任)。
本当にそういう申し出を朝廷がしたのか、信長側の誰かが可能性として口にしたのかは不明だが、公家がそういう噂を日記に書いているということは、彼らの感覚として、ありえたことの証だ。

豊臣秀吉像(狩野光信画・南化玄興賛、高台寺蔵)
関白は太政大臣や征夷大将軍よりハードルが高かった
逆に、五摂家でないのに関白になるのは、まったく前例がなかった。西園寺氏など藤原一族でも道長の子孫でない公家とか、久我氏のような村上源氏は、太政大臣にはなれても関白にはなれなかった。
宮中での席次でも太政大臣より関白が上というのが通例だった(一座宣下ということで例外はあり得た)。
つまり、関白は五摂家の専用で、太政大臣や征夷大将軍になるよりハードルがはるかに高かったのである。そこで、秀吉は近衛前久の猶子となって関白になった。
織田家中を会社に例えたら、秀吉はオーナー一族でなくサラリーマンなので、将軍よりもっと格が上の関白を望んだとも言える。ナポレオンが成り上がり者と馬鹿にされないために、あえて国王より格上である皇帝になったのに似ている。
豊臣姓の下賜と朝廷への工作
朝廷への工作は、右大臣だった菊亭晴季がした。菊亭は、秀吉の援助で上皇が引っ越す仙洞御所を建築でき、正親町天皇がかねてより希望されていた孫の後陽成帝への譲位が実現したので、「功績抜群」だとして、藤原鎌足の前例に倣って、豊臣姓を下賜し、太政大臣にするように知恵を絞ってくれた。
さらに、近衛前久の娘の前子が、秀吉の猶子として後陽成帝の女御になった。摂関家から後宮に入るのは、鎌倉時代の後二条天皇の典侍に一条頊子(万秋門院)がなって以来だったが、それ以降は、摂関家か宮家から天皇の正妻格で入内することが慣例になった。
ただし、称号は皇后ではなかった。中宮か女御だった。皇后という肩書きが、天皇の配偶者に生前から与えられたのは、明治天皇の昭憲皇后のときに復活してからである。
征夷大将軍の宮中での序列はどうだったのか
なお、将軍はだいたい内大臣や右大臣などになるから、その序列で扱われた。家茂が内大臣・征夷大将軍として参内したときは、左右大臣より下だったことは確認できるが、右大臣となったあとの序列は不明確だ。
足利義満は太政大臣・准后となったあとは、摂関より上位にあったようだが、これはかなり属人的なものと受け取れる。

なお、上に挙げた表は、豊臣大名の通称である。戦国時代でも呼称はだいたい氏名でなく職名だ。現代の会社でも役職で呼ぶのと同じだ。江戸時代でも将軍が井伊直弼を呼ぶときは掃部頭だし、会津の松平容保を呼ぶのも肥後だ。会津松平家は肥後守を世襲したし、逆に熊本城主の細川家は越中守だった。
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