孤独を「需要」として発見する中国、「社会問題」にする日本

島澤 諭
要約

中国では、孤独は食事相手、話し相手、通院同行など、一人ひとり異なる「需要」として発見され、サービスになる。日本では、孤独は「社会問題」として括られ、相談、見守り、居場所づくりという行政課題へ翻訳される。

まとめ

北京の地下鉄には、朝から晩まで人が押し寄せる。駅の構内も車両も人で埋まり、都市のどこへ行っても誰かがいる。それでも、そこで暮らす人が他者とのつながりを実感できるとは限らない。むしろ、無数の他人に囲まれているからこそ、自分が誰ともつながっていないという感覚が鮮明になることがある。

中国では、誰かに寄り添い、一定の時間を共にすることを有償で提供する動きが「陪伴经济(陪伴経済)」と呼ばれている。「陪伴」とは、そばにいる、付き添う、寄り添うという意味である。本稿では、こうした動きを広く「孤独経済」と呼ぶことにしたい。

提供されるのは、話し相手、食事相手、登山や旅行への同行、通院の付き添い、高齢者の見守りなどである。これまで家族や友人が担ってきた役割の一部を、料金を支払って他者に依頼する動きだ。

人間関係まで売買される社会は冷たい。そのように感じる人もいるだろう。しかし、この現象が投げかけているのは、人間関係の商品化に賛成するか、反対するかという問いだけではない。

家族や地域が担ってきた役割を果たせなくなったとき、その空白を誰が、どのように埋めるのか。中国の孤独経済は、日本にも共通するこの問題に、一つの答えを示している。

家族として果たしたい役割と、実際に果たせる役割

中国の孤独経済の背景には、巨大都市化、人口移動、少子高齢化がある。

経済成長の過程で、若者は教育と就業の機会を求めて農村や地方都市を離れ、北京、上海、深圳などの巨大都市へ移動した。都市は仕事と所得をもたらす一方、人々の生活を、それまで支えていた血縁や地縁から切り離した。

故郷を離れて暮らす若者は、親や親族、幼い頃からの友人との日常的なつながりを失う。都市で職場の人間関係は生まれても、仕事上の利害や役割を離れた関係を築くには時間がかかる。長時間の労働と通勤、広大な都市空間も、人と会い、関係を維持することを難しくする。

高齢者にも同じ変化が及んでいる。

中国では、子どもと同居せず、一人または高齢の夫婦だけで暮らす人々を「空巣老人(空巢老人)」と呼ぶ。雛が巣立った後、親鳥だけが残された「空の巣」にたとえた言葉である。

2021年に実施された中国の全国調査では、60歳以上の高齢者のうち、独居者が14.2%、配偶者とのみ暮らす人が45.5%を占めた。合わせると59.7%であり、一般に「空巣家庭」と呼ばれる、高齢者だけで暮らす世帯の広がりがうかがえる。

子どもや孫が同じ都市に住んでいても、頻繁に訪ねられるとは限らない。仕事、通勤、子育てに追われれば、親の話を聞き、病院に付き添い、家のなかの細かな困り事を解決する時間を確保しにくい。とりわけ一人っ子政策の影響を受けた世代では、一人の子どもが自分の子どもを育てながら、両親や祖父母を支える場合もある。

調査では、中国の高齢者の87.2%が、自分の子どもを「孝順」、すなわち親孝行であると評価している。家族を大切にする意識が失われたというより、距離と時間の制約によって、子どもが親の生活上の必要に日常的に応じにくくなっているのである。

中国の孤独経済は、家族意識の消滅からではなく、家族として果たしたい役割と、実際に果たせる役割との隔たりから生まれたのである。

市場が売っているのは「家族」ではない

孤独経済で取引されているのは、単なる作業時間ではない。

高齢者の家を訪ねて話を聞く。病院や買い物に同行する。家電やスマートフォンの使い方を教える。若者と食事を共にする。登山や旅行に付き添う。悩みを聞き、その人の言葉を急いで評価せずに受け止める。

こうしたサービスでは、作業の遂行だけでなく、安心、共感、承認、親しさが価値を持つ。市場が売っているのは家族そのものではない。家族や友人が担ってきた機能の一部である。

料金を支払って雇った相手が、本当の家族や友人になるわけではない。それでも、家族や友人ではないからこそ話せることもある。長期的な人間関係に伴う義務や遠慮から離れ、そのときに必要な相手を、必要な時間だけ選ぶことができる。

「本物の関係か、偽物の関係か」という二分法だけでは、こうした関係を十分に捉えられない。家族の代わりになることと、家族が担ってきた機能の一部を補うことは別である。家族関係そのものは代替できなくても、孤独な時間を和らげ、日常生活の不便を解消することはできる。

孤独経済は、家族や友人を料金で置き換える試みというより、家族や友人だけでは満たせなくなった必要に、別の経路から応える試みなのである。

中国では孤独が「需要」として発見される

中国の孤独経済で注目すべきなのは、社会の変化によって生じた細かな困り事が、一人ひとり異なる需要として発見されることである。

食事の時間だけ誰かと過ごしたい人がいる。病院への付き添いだけを必要とする人がいる。継続的な友人関係を求める人もいれば、一定の距離を保ちながら話を聞いてほしい人もいる。

孤独を感じる事情も、求める関係も人によって異なる。必要な相手、時間、場所、会う頻度、関係の深さも異なる。

市場は、こうした違いを細かなサービスへ分ける。利用時間や依頼内容に応じて価格を設定し、利用者は自分の希望に近い提供者を選ぶ。オンラインプラットフォームと少額決済の普及は、これまで取引として成立しにくかった小さな需要と、その需要に応えたい個人を結びつける。

中国では、家族に代わって高齢者の通院を手伝う「陪診(陪诊)」と呼ばれるサービスも広がっている。提供者は病院内の案内や手続きを手伝うだけでなく、不安を抱える高齢者に付き添い、心理的な支えも提供する。ここでも提供されているのは、事務的な作業だけではない。「一人で病院へ行かなくてもよい」という安心である。

中国では、孤独な人が保護や救済を待つ存在としてだけでなく、自分に必要な相手や関わり方を選ぶ利用者として現れるのである。

安全性、料金の透明性、提供者の信頼性、高齢者の財産保護など、利用者を守る条件を整える必要はある。それでも、個人が何を必要としているかを発見し、それに応じたサービスを生み出し、利用者の反応に合わせて内容を変えていく。この柔軟性が中国の孤独経済を支えている。

日本では孤独が「社会問題」として発見される

日本にも、中国と共通する変化が起きている。家族の規模が小さくなり、単身世帯が増え、地域や職場を通じたつながりも弱まっている。孤独は高齢者に限られた問題ではなく、現役世代や若者を含む幅広い世代の問題である。

内閣府が2024年12月に実施した全国調査では、孤独を「しばしば・常に」「時々」「たまに」感じると回答した人を合わせると約4割に達した。「しばしば・常に」と回答した割合は20歳代と30歳代で高く、現在の孤独感に影響した出来事として、家族との死別、一人暮らし、転校、転職、離職、退職などが挙げられている。

日本では、こうして孤独が社会問題として発見される。そして、社会問題として認識された孤独は、孤独・孤立対策、相談窓口、見守り、居場所づくり、関係団体への支援といった行政課題へ翻訳される。

孤独を社会問題として認識することには大きな意味がある。本人が声を上げられない場合や、経済的な理由から民間サービスを利用しにくい場合にも、支援を届ける根拠になるからである。全国調査も、孤独・孤立の実態を把握し、関連する行政施策の基礎資料を得ることを目的としている。

一方、社会問題が行政課題へ翻訳されると、孤独は相談、見守り、居場所づくりといった事業の区分に整理される。

行政には公平性が求められる。事業の対象、内容、利用条件を明確にし、同じ条件にある人には同じ支援を提供する必要がある。そのため、一人ひとりに合わせて相手や時間、関わり方を変えるより、多くの人が利用できる共通の支援を整える方向へ進む。

それによって基礎的な支援が広く届く。その一方で、孤独な人が実際に求めている相手、時間、関わり方、心理的な距離の違いは、共通の事業のなかでは捉えにくい。

食事の時間だけ誰かと過ごしたい人と、継続的な話し相手を求める人では、必要な関係が異なる。見守ってほしい人もいれば、見守られていると感じることに負担を覚える人もいる。家族のような親密さを求める人もいれば、一定の距離が保たれた関係に安心する人もいる。

日本では、孤独が社会問題として発見されると、行政課題へ翻訳され、相談、見守り、居場所づくりといった支援事業へ整理される。一方、中国では、一人ひとりが求める相手、時間、関わり方の違いが、それぞれ異なる需要として捉えられる。

日本では孤独が行政課題として標準化され、中国では個人の需要として細分化されるのである。

「支援対象者」として見るか、「利用者」として見るか

この違いは、孤独への対応方法だけでなく、孤独を抱える人をどのような存在として見るかという違いでもある。

行政は、孤独な人を支援の必要な人として把握する。行政が用意した相談や見守り、居場所へつなぐことで、その人を困難な状態から支えようとする。

市場は、孤独な人を自分の必要に応じてサービスを選ぶ利用者として把握する。利用者は話し相手の人柄、利用する時間、会う頻度、関係の深さを選び、自分の希望に合う相手を探す。

行政は孤独な人を支援対象者として発見し、市場は選択する利用者として発見する。この違いは、孤独への対応の形を大きく左右する。

市場で得られる選択肢は、支払い能力に左右される。高齢者や孤独な人の弱みにつけ込む事業者が現れる可能性もある。行政には、所得にかかわらず基礎的な支えを保障し、利用者の安全を守る役割がある。

その基盤の上に、本人が支援やサービスの内容を選べる余地を広げることが重要である。行政が共通の支えを保障し、民間事業者、地域団体、非営利組織などが多様な選択肢を提供することで、基礎的な保障と個人の選択を両立できる。

有償だからこそ生まれる距離がある

日本では、人の話を聞くことや高齢者に付き添うことを有償サービスにすると、人間関係を金銭に置き換える冷たさが感じられることがある。

しかし、無償の関係にも負担は生じる。

家族や友人に頼む場合、頼む側には申し訳なさや遠慮が生じる。頼まれた側にも、断りにくさや義務感が生まれる。無償の善意に大きく依存すれば、特定の家族や地域住民へ負担が集中することもある。

有償サービスであれば、利用者は必要なことを明確に依頼できる。提供者も、役割と時間について合意したうえで仕事を引き受けられる。

料金は、頼む側の遠慮と、引き受ける側の過度な自己犠牲を和らげ、双方が無理のない距離を保つための境界になる。

有償の関係は、家族や友人の代用品にとどまらない。親密さを強制せず、必要なときに成立する新しいつながりでもある。

家族や地域の善意には、継続的な関係を支える力がある。有償のサービスには、役割と時間を明確にし、依頼する側と引き受ける側の双方に選択を保障する力がある。両者はそれぞれ異なる関係を支える方法なのである。

「社会問題」のなかに個人の需要を見つける

日本に必要なのは、中国型の孤独経済をそのまま導入することではない。

市場だけに委ねれば、人とのつながりを購入できる人と、購入できない人との間に格差が生じる。利用者と提供者の安全や、サービスの質も確保する必要がある。

一方、行政が用意する相談、見守り、居場所づくりだけで、一人ひとりの希望に応じた関係を提供することも難しい。

行政には、深刻な孤立を防ぎ、所得にかかわらず基礎的な支えを保障する役割がある。市場や民間の活動には、一人ひとり異なる細かな需要へ柔軟に応える力がある。必要なのは、両者を対立させることではなく、行政による基礎的保障の上に、本人が自分に適した相手、時間、関わり方を選べる仕組みを築くことである。

行政は、サービスを提供する事業者や団体の安全性と信頼性を確保し、利用者が安心して選べる条件を整えることができる。支払い能力に応じた利用補助やサービス券を設ければ、本人の選択と公共的な保障を両立できる。

公共的な支援とは、行政があらかじめ決めたサービスを直接提供することだけを意味しない。本人が自分に適した相手やサービスを選べる条件を整え、その選択を所得にかかわらず支えることも、公共的な役割になり得る。

中国の孤独経済が示しているのは、人間関係を市場化する中国社会の冷たさだけではない。家族や地域が担えなくなった役割を、多様なサービスによって組み直そうとする適応力である。

日本では、孤独を社会問題として発見し、行政課題として受け止めるところまで進んだ。次に求められるのは、社会問題として括られた孤独のなかに、一人ひとりの異なる需要を発見することである。

かつての家族や地域共同体を、そのまま取り戻すことは難しい。家族以外の誰かとつながる経路を複数用意することが、これからの課題になる。

問われているのは、市場か公共かという選択ではない。中国は、孤独の違いからサービスを生み出す。日本は、孤独の共通性から支援事業をつくる。日本に欠けているのは、社会問題のなかに埋もれた一人ひとりの需要を見つける視点である。

参考記事:

Voice 2026年11月号に「「市民圏」という第四の座標の可能性」を寄稿しました|島澤諭|数字で読み解く日本の財政と社会保障
記事のポイント 課題:孤立(原子化)が進み、すべての問題を行政に頼ることで負担が増え、市民が他者に関わる余裕を失う悪循環が起きています。 解決策:国家・市場・家族に続く「第4の座標」として、当事者を含めて「誰が・何を・どこまで担うか」をとも...

編集部より:この記事は財政学者・島澤諭氏のnote「市民経済論で読む日本」2026年10月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は島澤氏のnote「市民経済論で読む日本」をご覧ください

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