
版元に頼まれて、本日発売の『「自分で考える」ということ』という本に解説文を寄せた。正確には「推薦の辞」なので、書籍の末尾ではなく冒頭に入る形になり、なんだか気恥ずかしい。

さらに恥ずかしいのは、それまで著者についてまったく知らなかったことだ。「澤瀉久敬」って、そもそも読めます?
正解は「おもだか・ひさゆき」で、いわゆる京都学派の哲学者だが、デカルトやベルクソンを研究しつつ、科学哲学(とくに医学論)に進出して、文学博士と医学博士を両方取得してる変わり種。かなりユニークな人である。
なんで無知なシロートに依頼が来たかと言えば、もちろんぼくがセンモンカ任せにせず、「自分で考えるということ」の意義をこの間ずっと説いてきたからだろう。今月は幸いに、その集大成である拙著とのW刊行になる。
世界を揺るがす事件については「実学っぽい専門家さん、ガンバって!」と丸投げしておいて、オイシイとこだけ「私もガクモンしてますぅ」とすり寄る “識者” が目立つ時代が令和である。つまり彼らは、自分で考えてない。


そんな人たちが “人文主義” を名乗ることのオカシさについては、従来も書いてきたが、どうもそうした世界では(中身に踏み込まなくてもいいから?)「文体」に注目するのが流行りらしいので、今回は掟破りを決めてみた。
令和ならぬ昭和、それも戦後の、「自分で考える」人を増やすことが民主主義と不可分であると誰もが知っていた時代に、そのメッセージはどんな文体で書かれ、そして読まれていただろうか。
『「自分で考える」ということ』は1961年の単行本の後、増補や文庫化を重ね、91年に最後の版が出るロングセラーだった。その復刊に添えて、ぼくはなにを語ったか、許可を得て全文を転載する(数値表記のみ、横書き向けに改めた)。
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「であります。」が呼び覚ますもの
「であります。」が、気持ちいい。
6篇からなる本書のうち、「考えるということ」「思想の英雄・デカルト」「個性というもの」「読書について」の4つが、文末を「であります。」で結ぶ文体で書かれている。そんな書物を最近、めったに見ない。オンラインの文章や、動画のトークでも同じだ。
言いかえれば本書は、令和のいまではまず用いない、ダサい文章で書かれている。実際にもし、ぼくがそんな調子で1冊書いたら、「なにが『であります。』だ。イタいおっさんだ」と嗤われるのかもしれない。
だけど、「考えるということ」の末尾にあたる58頁を開けて、
実践は、それがよりよいものへの実践であることによってのみ尊いのであります。
に始まる、怒涛の6文連続「であります。」のラッシュに触れてみてほしい。ここでKOを取りにいくと決めたボクサーを思わせる、澄みきった正統派のファイトがもたらす爽快さは、その文体を
実践はきっと、それがよりよいものをめざしているときにだけ意味があるんだと思う。その「よりよいもの」が何かは、じっくり考えないとわからないんだと思う。
とか、まして
よりよいものが最初からあって、それを引っぱってくるみたいな発想って、寂しいな。よりよいものは「自分で創る」方が楽しくてずっと自由だよ! って、言いたい。
のように直したとたん、消えてしまう。書かれている中身そのものは、同じなのに。

なぜ本書は「であります。」の文体で書かれ、それがもたらす透きとおった感触は、どこから来るか。
「であります。」の4篇は、いずれも1950~65年に行われた講演である。聴衆は学校の先生の場合もあれば、ステンレス企業の従業員までさまざま。一方で異なる文体の2篇は、雑誌への寄稿と、語りといっても放送だ。ポッドキャストと同じで、つまり聞く相手の目を見ては、話していない。
講演は基本的に、えらい先生がするものである。しかし「です。」と短く言い切ってもよいところを、丁重に「であります。」という言いまわしで延ばすとき、そこには話し手の気どりには留まらない、聞き手とのあいだに共有された「ある空気」が籠められている。
信頼である。それも目の前にいる聴衆が単に群れとして、たとえば拍手や笑いで同調するだけでなく、その一人ひとりが個人であることを失わずに、自分で講演を咀嚼し考えてくれるはずだとする確信だ。

1960年夏の『文藝春秋』に寄せた「理性の窓をあけよう」に、同年6月12日の朝日新聞に載った「東大名誉教授高木八尺博士」の文章を「敬意と深い感動とをもって拝読した」と紹介する箇所がある(67頁)。歴史に詳しい人は、あっと気づくはずだ。
新しい日米安全保障条約は、5月20日未明に強行採決で衆議院を通過し、6月19日には(参院の議決なしでも)自然成立することになるため、当時は空前の反対デモのピークだった。原紙にあたると、そのなかで高木は岸信介首相の退陣を求めつつも、
私がとくに憂うるのは、ひとり政党間だけでなくわが国民の間に日ごろ認められる思想的両極化の傾向である。……しかし学界に身を置く者は、激情を克服して理性の声に耳を傾ける不断の努力がなければなるまい。
と、述べている。もし群衆を動かす激情のさなかに、個人の理性が溶けて消えてしまうなら、やがて国民は両極に引き裂かれると見抜いていたのだ。

社会を動かすマスなエネルギーの前では、それに水を差す個人なんて居なくていい、とする考え方は、昔からある。ただ少なくとも、戦後という時代が若かった本書のころは、そうした力の奔流は前向きなものだと思われていた。民主主義をあるべき未来へと、推し進めるのがデモだと信じる素朴さがあった。
しかし令和に入ると同じものは、むしろニヒリズムにまみれて語られる。個人など不要で「自分で考える必要はない」として持ち出されるのは、いまやビッグデータの群れから回答文を作り出す生成AI。まさに本書があとがきで批判する、「みんなで考える」だけでよいとする発想のテック版だ(250頁)。

そんな時代に、群れを前にしつつも一人ひとりの知性に訴える、「であります。」の文体はかつてなく懐かしく、そして希望に満ちて響く。
著者の澤瀉久敬は1904年に生まれ、京都学派に学び、今日でいう科学哲学の分野を拓いた(一昨年にNHKブックスで復刊された『哲学と科学』の解説が、略伝として読みやすい)。師である西田幾多郎が、さわりを読んだだけでハイデガーの『存在と時間』を講釈してみせた挿話など、「読書について」は昭和思想史の証言にもなっている(226頁)。
これをSNS時代の識者がよくやるキャリア自慢や、専門家マウントと取り違えないことが大切だ。著者はむしろ「他人の思想の高さを知るためには、まず、自分を高めることが必要」という、誰にでもあてはまり、かつ誰もが実践できる読書の理想を伝えるために、書いている。たとえるなら、「お寺の鐘は鐘をつく者の力と心に応じて鳴るのであります」(224頁)。

文理融合の思想に先駆けた澤瀉が、なぜ個人であることをやめてはいけないか、その真義を説く「個性というもの」での隠喩は、いっそう美しい。
人間が時間をどう経験するかを哲学的に捉えると、それは扇子の開閉に似てくると著者は言う。誰しもいま、この瞬間を生きているようでいて、そこでの判断には過去に体験したすべてが折り込まれ、新たに開くことで未来の図柄が決まる。
現在とは、その扇子の要である。ところで、扇子の場合には、開かれた扇子は、閉ざされる前の扇子と同じでありますが、人間の場合には違ってまいります。未来と過去は同じではありません。(171頁)
歴史には逆らいがたい流れがあり、抗って個人にできることなど何もないようにも見える。しかしそれでも、自分がいま扇子の要として人生の時間を束ねていると思うとき、もういちど個人の知性というものが息を吹き返すのであります。
ふと、柄にもなくそんな言葉が口をついて出る。自分の頭で考え、なによりも相手を信じて呼びかけることの楽しさを、戦後日本のロングセラーだったこの本は、実に4度目の復刊を通じて教えてくれる。
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ぜひ拙著(予約はこちらから)と合わせて、手に取ってくれたら嬉しい。よろしくお願いします!

右のは来週10/21刊!
参考記事:


(ヘッダーは、京都自治体問題研究所より)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2026年10月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください







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