『VIVANT』シーズン2の違和感:令和の関東軍と「救国の英雄」を求める日本人

『VIVANT』シーズン2を見ていて、どうにも気になることがある。国家を守るはずの秘密組織が、文民統制の枠外で独自に動き、国家の最高権威を背景に暗躍する。そして、その危うさを抱えた組織が、国民の喝采を浴びるという構図である。

もちろん、ドラマはドラマとして楽しめばよい。堺雅人氏の演技力には、ただただ圧倒される。しかし、政治や歴史を学んできた者としては、物語の面白さとは別に、見過ごせない違和感が残る。

TBS VIVANT 公式サイトより

令和の関東軍

思い起こされるのは、戦前の関東軍である。

1931年の満州事変では、現地の軍事組織が独断で行動し、既成事実を積み重ねることで、中央政府の意思決定を事実上拘束していった。政府が軍を統制するのではなく、軍の行動を政府が追認せざるを得なくなる。そこには、国家の統治機構と現場の実力組織の関係が逆転するという問題があった。

満洲事変で瀋陽に入る日本軍 Wikipediaより

もちろん、ドラマの別班と関東軍を同一視することはできない。それでも、国家のためという大義名分が、制度上の制約を乗り越える正当化の論理になりうる点には、共通する危うさがある。

安全保障に秘密活動は欠かせない。しかし、秘密であることと、統制されていないことは別問題だ。誰がその行動を承認し、誤りを正し、責任を取るのか。民主主義において問われるべきは、組織が正義を掲げているかどうかではなく、その正義を誰が監視するのかという問題である。

なぜ国民は「制度の外側の英雄」に熱狂するのか

さらに気になるのは、秘密組織そのもの以上に、それを支持する側の心理だ。

政治が機能不全に陥り、既存の制度では問題を解決できないように見えるとき、人々は制度の改善よりも、制度を飛び越える英雄を求める。議会は決断できず、官僚は前例に縛られ、政治家は国家の危機に対応できない。そうした不満が積み重なれば、手続きを無視してでも結果を出す人物が魅力的に映る。

この心理は、満州事変当時の世相を考えるうえでも示唆的だ。軍の行動が既成事実化されるにつれ、政府が不拡大方針を維持することは政治的に難しくなった。軍事行動への批判や外交的妥協は、弱腰と受け取られることもあった。

当時の国民世論を一枚岩とみなすことはできない。それでも、既成政治への不信が、制度の外側で行動する勢力への期待に転化する構図は、今日にも通じるものがある。

「暴支膺懲」の空気

シーズン2の裏テーマともいえるのが、敵を排除することを正義とする空気である。ここから連想するのは、日中戦争期に用いられた「暴支膺懲」というスローガンだ。

敵の脅威を強調し、その排除を国家の正義として語る。そうなると、交渉は弱腰とされ、慎重論は裏切りと疑われ、法や手続きの制約は邪魔なものに見えてくる。

もちろん、現代のドラマと当時の対中政策を単純に重ねることはできない。しかし、敵の存在を理由に、あらゆる手段を正当化する論理には注意が必要だ。安全保障上の脅威を認識することと、感情的な敵視に流されることは違う。

政治が機能しないとき、制度を立て直すよりも、制度の外側にいる「救国の英雄」に一縷の望みを託す。これは日本人特有の心理なのだろうか。むしろ、既成政治への失望から強い指導者を求める現象は、他の民主国家にも見られる。問題は、その期待が権力への監視を後回しにしてしまうことだ。

『VIVANT』は、エンターテインメントとして実に魅力的な作品である。しかし、国家を守るために法を破る者は、本当に国家を守っているのか。英雄の善意に、どこまで国家の運命を委ねてよいのか。

関東軍の歴史が教えるのは、国家を救うという確信が、必ずしも国家を救う結果につながるわけではないということだ。民主主義を守る最後の砦は、英雄の善意ではない。英雄であっても権力を制限されるという原則なのである。

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