世の中には、意外に根も葉もない都市伝説が受け継がれているもので、「姥捨て山」というのもその一つです。これは深沢七郎が『楢山節考』で創作したフィクションであり、そんな歴史的事実はまったく存在しません(2017年1月6日の記事)。
人口問題を解決した方法は、姥捨てとは逆の子捨てである。もっとも多い方法は「水子」、つまり乳児を捨てることだった。堕胎や「子返し」と呼ばれる嬰児殺しも、なかば公然と行なわれた。老人を殺すのは大変だし、捨てても村に戻ってくるが、乳児は放置するだけで死んでしまう。
速水融『歴史人口学で見た日本』によると、1750年以降の記録から確認できる乳児死亡率は21%で、これが当時の日本の平均に近いと彼は推定している。これはいま世界最高のアフガニスタンより高く、単なる病死ではない。
もう一つは、速水氏が都市アリ地獄説と呼んだ現象だ。江戸時代の人口を推定すると、農村の人口が増える一方で、江戸が100万人、大坂と京都が各50万人で、ほとんど増えていない。この原因は都市の衛生環境が悪く、伝染病などによる死亡率が高かったためだと思われる。ある村の記録では、奉公人が都市に出たうち、奉公を終了した理由の3割が「死亡」だった。
人口が都市に移動したのは、伝統的な「合同家族世帯」が江戸時代に「直系家族世帯」になったためだ。中世には兵農が分離しておらず、数十人の大家族で一つの軍団を形成していたが、江戸時代に平和になって親子3代までの小家族になり、労働意欲が強まって勤勉革命が起こった。土地を相続するのは長男だけなので、次三男や女性は都市に出て死んだのだ。
このような歴史をみると、現代との共通性がみえてくる。江戸時代に農地が限界に達したとき、「口減らし」として行なわれたのは、既得権をもつ老人を捨てることではなく、若者や子供を捨てることだった。その伝統は、今も日本に残っているのだ。






