「(何らかの計算に基づく)自給率だけで国内の農業の良し悪しを評価するのは危険だが、自給率を保つ、もしくは高める意識は持ったほうが良い」という認識から、日本の政策としても現状維持ではなく、より力を入れるのが望ましいと思います。ただし、その方法は「農家振興」ではなく「農業振興」であるべきだと考えます。
安全保障という観点では、地球上で生産可能な量にキャパシティがあり、地球上の人口が当面増え続け、経済的に豊かになり今より「食える」ようになる人が増え続ける中、日本が今までどおり(量と価格を)輸入でまかない続けるのはいずれ厳しくなると思われます。
そして、そうなった時に、「では、国内でも作ろう」ではやや手遅れではないでしょうか。
食文化について
食べ物というのは、その地域・その国の文化が強く反映されています。
その食文化は、その地域固有の産物があってこそ成り立つものが多くあり、これはその地域での「自給」なくしては存在しえません。
その食文化に結びつく産物がどの程度「自給率」に寄与しているかは、具体的な数値で申し上げることは出来ませんが、「輸入すればよい」という理屈では消えていくものが多いと思います。
今回のテーマは、「食料自給率」ですので、自分が数値を指し示すことが出来ない「食文化」を引っ張りだすのは無理があるようにも思いましたが、「自給率の低い日本」を想像したときに、「食文化だけが豊か」という状況にあるとは思えず、日本での食料生産を考える際の皆さんの視点の一つになればと思い理由の一つとして挙げました。
また、自分の住む地域で取れたものは、大抵新鮮で栄養価も高い(健康に良い)、美味しいという素直に感じる事実も、経済学的観点だけでみると軽視されがちではないかと感じています。
自給率アップのために、カロリーの高いものを生産し数値だけを稼ぐことは意味が無いと思います。また、飼料を国内で大量生産することもあまり合理的ではないでしょうし、缶詰や乾物など地域間での流通・貿易(輸入だけでなく輸出することも出来る)に適したものもあります。自給率の数値だけで良し悪しは測れないと思いますが、経済学的観点だけではない「食べ物の質」を考えるべきだと思いますし、政治に全てを委ねるのではなく、一市民としてスーパーや飲食店での「選択」も重要な問題であると考えています。
(高井 俊和)
コメント
>「では、国内でも作ろう」ではやや手遅れではないでしょうか。
レアメタルは採掘するもので作るものではありませんが、以前から枯渇が問題視されていても、現在それで騒ぎにはなりません。→市場の原理
>自分の住む地域で取れたものは、大抵新鮮で栄養価も高い(健康に良い)、美味しいという素直に感じる事実も、経済学的観点だけでみると軽視されがちではないかと感じています。
食料の質もまた自由な市場の競争で向上します。輸出をなくし国産に限定すれば競争力も低下し、質も低下します。「美味しい」と感じることに経済の原理が働いています。
soujiro0725さん
コメントありがとうございます。
レアメタル(原油も同様かと思います)と食糧の違いは、「無くてもなんとかなる」か「無いと困る」ことではないでしょうか。
レアメタルが高騰して、携帯電話が高い・買えない(変えない)となっても「仕方ない」で済みますが、食べ物はそうもいきません。また、「高騰すれば、生産量が増える」というのも、同意しますが畑を耕すのは工場を作るのとは勝手が違うと思います。既に工場野菜というものもありますから、完全に分けた議論をするのは難しいかとは思いますが。
ただし私は、いますぐに食べ物がなくなってしまうリスクがある!と主張しているわけではありません。「備えは必要」ということです。
質や美味しい、に対しても市場原理が働くというのも同意します。ただ、どの程度か?と考えると私はやや疑問を感じます。
食べ物からは離れますが、使用する事によって外部に「マイナスの効用がある製品」というものもあると思いますが、マイナスの効用は、必ずしも価格に含まれていないと思います。
また、例えば食育活動は、市場原理に任せて起こりえたものでしょうか?
日々の生活や投票行動は合理的に行いたい・そうあって欲しいと思いますが、では合理的というのは全て市場原理で決まるのでしょうか?文化に関する事は、絶対的な評価も決めづらく、だからこそ政治的に決められる事もあると思います。
>「無くてもなんとかなる」か「無いと困る」ことではないでしょうか。
そっくりそのままお返しします。
「食文化」とは贅沢の裏返しです。多くの食べ物が溢れており、そのなかから自分の好きなものを自由に選択できるとしたら、人間は一番美味しいものを食べます。そうして「選択」という「競争」を勝ち抜いた「食べ物」が食文化として根付くのです。
これを可能にするには、捨てても平気なくらいの食料とその種類を必要とします。つまり、経済の概念がここにも働いています。
食文化を守りたい=贅沢をしたい
という人が、「無いと困る」というものを持ち出すのは矛盾です。
ないと何が困るかの水準の問題ですね。
現代の文明社会を考えたとき、レアメタルはなくてもいいというのもどうかと思うし、食文化なんぞ贅沢だというのも同意できない香りがします。贅沢でも貧しくても、そこに文化は確かにあると思う。
食文化の形成については同意しますが、文化が動的な概念であることが抜けていると思います。
例えば、日本の人口は明治維新あたりまで3000~4000万人です。いわゆる自給による日本食文化ができたのは、このことも大きいように思います。
今の一億人以上の人間が生きる社会は、自給以上の要素で実現されているのではないでしょうか。食文化もそれに合わせ変化して当然と思います。地球の裏から魚を取ってきたりするのも現代的な食文化ですよね。同様に海外から買うのも食文化かもしれない。
あと、新鮮なもの、栄養価のあるものというのは、付加価値の話なので、経済的に解決しうる問題ですね。
soujiro0725さん
選択の余地が無い状況では食べ物で文化を語るのは贅沢、という状況はあるかもしれませんが、基本的には贅沢うんぬんとは別のものと考えます。(たとえば、国によってはファーストフードの利用率と所得に相関関係があるようですから、「基本的には」と思っています)
食料自給率に関する投稿で引き合いに出すのは誤解を与えそうで気が引けます(米は十分足りているようなので)が、国・地域による米文化とパン(粉)文化の違いは贅沢さの違いではないと思います。
また、地域によって取れる農作物もその食べ方も違います。私はそれが文化だと思います。
akiteru2716さん
誤解を与える書き方だったかもしれませんが、レアメタルが無くてもよい、とまでは考えていません。食べ物とは違うのではないか?という意味で書きました。
日本は人口が減っていく可能性は高いですが、この国の土地だけで全ての食料をまかなえるとも、そうするべきとも考えていません。
また、今ある文化を頑なに守ることが全てではないと思います。仰るとおり、時代に合わせて変化もすれば、適応の必要もあると思います。
ただ、私は食糧自給について考えるとき、日本で作られている食べ物とそこに文化があることも考えます。食料自給率に関する議論で、「輸入できれば代替可能」という意見を多く目にし、食文化や「食べること」に触れられることを見受けないため、問題提起いたしました。
日本の食料自給率が低下したのは、日本人の食の嗜好が大きく変化したからだと思います。日本が経済的に豊かになった結果、米の消費が減り高級海産物や肉類の消費が増えたのです。戦前のようにご飯と梅干しだけでいいのなら、自給率はかなり上昇するでしょう。したがって国民の嗜好の問題にすぎない食料自給率に、政治が介入するのは望ましくないと考えます。
日本独特の食文化に関しては、投稿者様と同様私も個人的には残って欲しいと思いますが、それは市場原理によるべきです。何が残すべき食文化かなどということを政治的に決定することは不可能でしょう。結果的に市場原理によって残った食文化こそが価値があるのです。
議論がそれてしまいそうなので最後にします(編集長、なにとぞご容赦をm(_ _)m)
akiteru2716さん
>ないと何が困るかの水準の問題ですね。
違います。主張の中に市場の原理が含まれているにも関わらず、それを認識していないことを指摘しているんです。
taka_toshi さん、
食の西洋化を懸念しているんでしょうかね。
誤解されないように言っておくと、自分は「食文化」の保護には大賛成です。絶対に守って欲しいです。ただ、それは市場の原理を利用した方がより可能性は高いと思います。
国産品は値段が高いと言いますが、それは質が高いからでもなければ、文化的価値があるからでもありません。「その値段でも買う人がいるから」です。つまり、値段が高いというのは人の支持を受けているということです。
誰でも安価に簡単に手に入るものを、人は「習慣」とは言っても「文化」とは言い難い。
「何かを守る」ことと、「その何かで世の中を埋め尽くす」ことは違います。
あまり良い例ではないですが、「漢検」がもてはやされたのは、携帯などの漢字変換に慣れて漢字力が低下しただけでなく、外来語と外国語教育の比重の増加の影響も大きいかと。能や歌舞伎が今でも残っているのは、「他を排除」したからではなく、少人数による質の維持によるところが大きい。
適切な市場規模によって「稀少性」が高ければ、人は支持を続け、結果守られます。「他を排除」することによる保護主義は逆に質の低下と支持の低下を招きます。
投稿の冒頭に私の主張を書いていますが、はっきり明言していないことがあり、誤解を招いている部分もある気がします。
私は、農水省の「食糧自給率アップ」施策を、全面的に支持するわけではありません。そして、農水省に限らず日本の行政全般がもっと「小さく」なったら良いと思っています。
それと、参考になるかは分かりませんが、私は「市場原理主義」というような単語を使った論説は多くありますが、大抵好感は持ちませんし、経済原理がさっぱり分かっていない、というつもりもありません。
しかしながら、食糧自給率の議論の際、「輸入すればよい」「市場原理が」というのを多く見かけ、食糧もエネルギーと同じ一資源ではあるけれど「食べ物」なのにと感じていたので、議論の軸の一つとして「食文化」を提言しました。
輸入を否定したり「過剰な」保護を求めるつもりもありませんが、食べ物はその育つ場所とそこに住む人との繋がりが強い資源だと思います。ここが食料の自給を考える際に、一つの大事なポイントだと私は思っています。経済的な合理性ももちろん大事だと思います。
tom574さん
「文化」を市場原理で残す、というのは少し難しいと考えています。(高く評価する人が多く、高い評価を受ければ、高い値段が付くことはあると思っていますが)
文化と市場原理は簡単には相容れないもので、それは文化には値段が付け辛いからだと思います。
soujiro0725さん
>食の西洋化を懸念しているんでしょうかね。
そうではありません。
能や歌舞伎が残っている要因というのは私には全く分かりませんが、これらの文化は多少なりとも国の支援を受けているのは事実ではないでしょうか?食事はみんながすることですから、(仮定ですが)食文化が少しだけ残っているというのはやや困った状況のようにも思います。
安全保障の観点から、自給率100%のはずの米のミニマム・アクセスは、無駄な輸入をしていると考えますが、どうお考えでしょうか?僕には、食糧危機の保障とは考えられません。
米を食べなかった国で大量の米が生産されて、フードマイレージを押し上げています。一方では、市場原理から生産調整が行われ、減反政策に繋がったと思っています。
経済に疎い農民が多いと思いますが、水資源や環境、土壌、日本の気候を米作りの資本と考えた時、農村の資本力はかなり低下していると思います。農村の原風景や食文化は、大切な財産だったはずです。
貿易立国の発展の裏に農村の衰退があったと考えれば、農村経済がなり行かないから自給率は下がり、輸入に頼るようになったのだと思います。ミニマム・アクセスを受け容れなければならないほど、日本の農業は駄目になっていると思いますか?