本当にできるの?iPS細胞で再生医療 - 仙石 慎太郎

アゴラ編集部

京都大学 物質-細胞統合システム拠点(iCeMS=アイセムス)准教授
文部科学省所轄の科学技術政策研究所がまとめた、今後30年の技術発展の「未来地図」が、今月10日に発表された。これによれば、iPS細胞(誘導多能性幹細胞)による再生医療が実現するのは2032年であり、砂漠の緑化技術が普及するのは2029年である。ちなみに本調査は、各調査分野に詳しい大学教授や民間技術者ら約2,900人による予測というから、いわゆる専門家の間の合意(コンセンサス)とみなしてよいだろう。

そして、多くの国民は、ここでひとつの素朴な疑問を感じるに違いない。「なぜそんなに時間がかかるの?もっと早く実現すると思っていたけど?」という疑問をである。確かに、巷の報道は、あたかも明日にでも実現しそうな風潮である。


たとえば、本年7月7日の毎日新聞朝刊に記載されネット配信された、以下の記事を見てみよう。

iPS細胞で安全にせきずい治療
<脊髄損傷>安全なiPS細胞移植…マウスの運動機能回復

腫瘍(しゅよう)にならない人工多能性幹細胞(iPS細胞)を選び、脊髄(せきずい)を損傷したマウスに移植、運動機能を回復させることに、岡野栄之・慶応大教授と山中伸弥・京都大教授の研究チームが成功した。iPS細胞はさまざまな組織や臓器の細胞になり、再生医療への応用が期待されているが、腫瘍を作る危険性があった。米科学アカデミー紀要(電子版)で発表する。

研究チームはマウスの脳にiPS細胞を移植し、半年たっても腫瘍を作らなかったiPS細胞を選んだ。次に、さまざまな神経細胞になる神経幹細胞に変化させ、脊髄が損傷したマウスに損傷9日目に50万個移植すると、だめになった後ろ脚を使って歩いたりできるまでに回復した。

一方、腫瘍化の可能性があるiPS細胞で同じように実験すると、運動機能は一時的に回復したが、約5週間後には脊髄内で腫瘍が形成され、機能も低下した。
岡野教授は「安全性を厳密に評価すれば、iPS細胞を将来、脊髄損傷の治療に使える道が開かれた」と話す。

この記事を読んだ方の多くは(特にヘッドラインのみを見た方は)、あたかも安全な治療法がマウスで確立され、間もなくヒトでの治療法の開発が開始され、重篤なせき髄損傷患者が遠からず救済されることへの安心感を抱くはずである。

しかしながら、現実はそうではない。

現在、いわゆる万能細胞(多能性幹細胞)としては、胚性幹細胞(ES細胞)とiPS細胞の2つが有力候補と考えられているが、あらゆる万能細胞が標準とすべき「ゴールド・スタンダード」がES細胞であることは、世界の研究者・技術者の間では常識中の常識である。加えて、ES細胞は10年前に確立され、多くの研究の積み重ねがある。

事実、前に述べた脊髄損傷の治療は、iPS細胞はまだマウスを使った実験段階だが、一方のES細胞では、生身の患者に対する臨床開発がアメリカで開始されようとしている。これは単なる実験ではなく、Geron社という同国を代表するバイオテック企業が、世界最大のライフサイエンス企業であるGEヘルスケア社と提携し、公的機関であるFDA(米国医薬食品局)の認可のもと行われる、公式の治験である。

また、そもそも論として、アメリカ、ヨーロッパをはじめとする日本以外のほとんどすべての国では、ES細胞とiPS細胞はともに万能細胞であり、政策上これらを区別することはない。研究開発・医療目的に応じて、最適な細胞種を用いるという、ある種当然の発想である。特にアメリカでは、まずは扱いやすい組織幹細胞(体性幹細胞)やES細胞を用いて技術開発や臨床開発を先行させ、そこで得られた成果をiPS細胞技術に展開するという、合理的な戦略が採られている。オバマ大統領が就任直後に研究開発の推進を表明したのは、ES細胞の方であり、iPS細胞ではないのである。

ヒトES細胞の課題としては、受精卵を壊すことの倫理問題が、マスメディアでは必ずと言っていいほど取り上げられる。しかしながら今日では、体外受精のときの余剰胚を用いる方法が開発されている。どのみち廃棄対象の余剰胚を、未来の医療のために活用することが、果たして倫理にもとる行為なのか問うてみたい。ちなみに、もうひとつの課題である免疫拒絶の問題も、免疫のタイプをカバーする相当数のヒトES細胞バンクを構築することで対応可能との説が有力である。

詰まるところ、日本ではヒトES細胞に対する過剰規制が敷かれ、万能細胞の過去大幅に停滞した負の歴史があり、そのためiPS細胞が「巻き返しの切り札」のごとく扱われているに過ぎない。その結果、「ES細胞は旧型、iPS細胞は新型」、或いは「ES細胞は海外勢が先行するが、iPS細胞では日本が世界をリード」等といった、もはや情報操作とも取られかねない、日本以外では理解不能なプロパガンダがまかり通っている。

上述の新聞記事にある研究成果は、確かに貴重な一歩に違いない。ただそれはあくまで「千里の道の一歩」であり、その実現はまだ遠い未来であることを、肝に銘じておく必要がある。

それでは、なぜこのように事実と報道との間にギャップが生じるのか、何が課題となのかについて考えてみる。

第一の課題は、「科学(サイエンス)の壁」である。iPS細胞でできることは、基本的に、ES細胞でも実施することができ、事実取り組みは先行している。しかしながら、逆に、ES細胞でできることは(少なくとも現時点では)iPS細胞で必ずしも再現できないか、或いは十年単位の時間がかかるとみられている。むしろ現在は、iPS細胞の安全性や再生医療を議論するはるか以前の段階であり、iPS細胞のメカニズムについて「余りにも理解できていないことがようやく解りはじめた段階」といっても過言ではないし、そもそも何が「iPS細胞」なのか、その基本的な定義すら専門家間で確立されていない。その意味で、昨今取りざたされている発明・発見の多くは、まさに「千里の道の一歩」なのである。

第二の課題は、「安全・安心の壁」である。マウスなどを使った基礎研究では、百万個に1個でも成功すれば、それは成功とみなされ論文として発表される。もちろんその過程でマウスが死んでも致し方ないし、移植する前に脳に打ち込んでその安全性を確かめることもできる。しかしながら、ヒトでの医療応用となればそうはいかない。百万個に1個でも失敗してはいけないし、百例に1例でも失敗が出れば大変である。また、安全であるのみならず、国民の「安全・安心」が伴わなければ医療として確立することはできない。特に日本は、「安心」のハードルが世界で最も高い国なのである。実際、皆さんは、100万個の細胞のうちたった1個でもがん細胞になる可能性がある場合、その治療を進んで受けるだろうか?多くの方にとって、答えはノーのはずである。

そもそも本質的な課題として、無限に増殖するという特性をもつ以上、万能細胞とがん細胞は紙一重の存在である。まずはいったん原点に戻り、これら万能細胞のもついわば「がん」としての特性を理解するための基礎研究や、制御のための技術の開発を、手厚く行っていくことが不可欠である。

第三の課題は、「経済性の壁」である。先日読んだ再生医学の研究者の一般向け著書で、「iPS細胞/万能細胞による再生医療は、いわば『錬金術』」と評されていた。これは、なかなか言い得て妙な表現と思っている。
確かに、物理学の理論では、他の元素(水銀とベリリウム)から金を生成することができる。ただそのためには、巨大なサイクロトロンを運用し、多大なコストをかける必要がある。つまり、科学技術面では可能だが、経済面では到底折り合わず、したがって不可能である。

同様のアナロジーで、ヒトiPS細胞などの万能細胞による再生医療は、少なくとも現時点においては、一部の限られた超富裕層向けの医療サービスか、あるいは他に治療法がない重篤な難病患者を救うという、社会正義の発揮の手段としてしか成立しない。もちろんそれらの意義や技術革新によるコスト削減の可能性は否定しないが、少なくとも現時点において、産業論のコンテクストで軽率に議論することは禁物である。

最後の第四の課題は、「既得権益の壁」である。敢えて誤解を恐れずに言えば、昨今の科学技術政策の立案・実施プロセスは、関係省庁・外郭団体、研究者、マスメディアの「鉄のトライアングル」に支配されやすい構造となっている。

関係省庁・外郭団体は、財務省から予算を取り、公的な事業を推進する。研究者は、その事業から研究費を獲得し、やりがいのある研究を行い、画期的な成果を創出する。マスメディアは、その研究成果をもとにセンセーショナルな記事を書く。結果、その研究成果は社会にひろく認知され、さらなる事業推進のための支持を得ることができる。

この循環が良好に維持されることで科学技術の推進が図られるのだが、そのためには、このプロセスが常に国民とその代弁者により監視され、正しい方向に導かれることが必須の条件である。逆に、この循環が一部の専門家や官僚、研究者とメディアに閉じた構造となったとき、性悪説的に考えれば、それは既得権益の利権の温床となる可能性は高い。特に、先端科学技術の高度な専門性を考えれば、道路やダムに比べてより悪循環に陥りやすく、それは昨今話題となった「事業仕分け」をもってしても、追及することは極めて困難だろう。

以上、筆者が考える課題認識を思うところに述べてみた。それでは、再生医療などの夢の科学技術を正しく推進するために、現代社会そして国民が何に注意すべきなのだろうか。

第一は、サイエンスとしての真実は不変であるということである。いかなる善良な思想、願望やはたまた政治的意図をもってしても、科学的事実だけは、決して曲げることはできない。あくまでサイエンスに忠実に、日々生まれる発明・発見の成果を -とりわけ、それが「不都合な事実」であった場合ときにこそ- 冷静に受け止め、慎重かつ柔軟に、勇気をもって対処していく必要がある。

第二は、サイエンスとは裏腹に、これを取り巻く社会は無常であり、人心は日々遷ろうという、もう一つの真実である。今後、日本の政治経済情勢は大きな変化と転機を迎えるだろう。また、20或いは30年の後には、経済情勢のみならず、日本人の人生観、或いは死生観すら、変容(或いは、回帰)しているかもしれない。未知を知に変えたいという科学者・技術者の情熱、眼前の患者を救いたいという医療人の志は、畏敬の念をもって迎えられるべきである。一方、日本の経済的発展や雇用、社会保障に結びつかなければ不要、という意見にも、真摯に受け止めなければならない。

そして第三は、これら2つの真実に折り合いをつけ、科学技術政策を正しく導くための現実解は、フェアで開かれた議論を通してのみ得られるということである。我々は先端科学技術に何を期待し、何をもって達成、或いは満足とするか。科学者・技術者や医療人、為政者に留まらない全ての推進者が、真摯かつ柔軟な姿勢で、公との対話を深めていくことの重要性はかつてなく高まっている。

仙石慎太郎 京都大学 物質-細胞統合システム拠点(iCeMS=アイセムス)准教授 Twitter

コメント

  1. otg01008508 より:

    iPS細胞の開発により、受精卵やES細胞をまった
    く使用せずに分化万能細胞を単離培養することが可能となった事は生命科学の進歩の勝利といえよう。
    しかしながらウイルスベクターを利用する事による4つの因子 (Oct3/4,Sox2,c-Myc,Klf4) を導入することが癌化のリスクを大きくしている。ES細胞においても分化をウイルスベクターによる形質移入でES 細胞に外部遺伝子を導入すれば同じく癌化のリスクがある。さらに臨床応用では汚染(糖鎖)の問題がある。
    現在、ウイルスベクターに代わって非ウイルス性遺伝子導入剤の開発が緒についている。それはポリカチオンを主体としたpolyfectionとカチオン性脂質を主体としたlypofectionに大別される。これらの非ウイルス性遺伝子導入剤は何れも遺伝子及びたんぱく質などの-電荷と自身の+電荷でイオン結合した複合体を形成して細胞内に捕食されることより導入される。

  2. otg01008508 より:

    しかし問題点はウイルス及び細菌も同じメカニズムで複合体を形成し細胞内に捕食されることより導入される危険性があることである。 この現象は逆性石鹸としてのカチオン性脂質に観察され、前ローマ法王のヨハネ・パウロ2世がカテーテルの逆性石鹸消毒の失敗で細菌巻きこみから尿毒症を発症し敗血症を併発したことで記憶にあたらしい。
    この為、これらの非ウイルス性遺伝子導入剤は使用事に完全に加熱滅菌されていなければならない。
    これらの耐熱性を有しない非ウイルス性遺伝子導入剤に関してはMillipore membrane濾過滅菌の検討がなされているが、ポリカチオンなど自身が有する(EPR)効果により、大きな分子量のものも透過され仮に巻き込んだウイルス・細菌があっても透過する危険性があり、濾過滅菌の限界の危険性を考える必要がある。
    そこでは非ウイルス性遺伝子導入剤のためには120C/15分のautoclave滅菌が必須である。 注射液、輸液などはFDAにより本質的にはutoClave滅菌がもとめられている。
    これらの危険性は血液の非加熱製剤でいやと言うほどみてきたのに何ら教訓に成っていない。