国家事業とは何か?(続き)

松本 徹三

先週のコラムの続きです。今回は、「国家事業らしい国家事業とはどういうものか」を考えてみたいと思います。これこそ、政治家でなければ推進できないし、その当否はその政治家の資質を物語るものです。スケールの大きいものであれば、当然賛否は大きく分かれるでしょうから、激しい反対論に立ち向かう勇気も必要となります。少し古めかしいテーマのように受け取られるかもしれませんが、民主党政権では「政治主導」という事が強く言われているわけですから、時期を得たテーマとも言えるかと思っています。


「国家事業」とは、必ずしも「税金を使って何かを作ったり、事業を運営したりする」事ではありません。「国家として必要な『目標』を定め、その為に必要な施策を総動員する」ことを意味します。何故「国家事業」でなければならないかと言えば、民間の自由な経済活動に委ねる「レセフェール」では実現出来ないし、法制度に手を加えることも必要だからです。(「規制緩和」も、逆に何かを規制する事も、「法制度に手を加える」事になります。)

「目標」を定めることは、勿論容易ではありません。色々な考えの人がおり、当然甲論乙駁があるからです。選挙で選ばれた議員が内閣総理大臣を選んでいるのですから、閣議で決定されたものは、一応「国民のコンセンサスが得られた」と考えるべきですが、法制度を変えるとなれば国会の議決が必要であり、また閣議決定にせよ、国会議決にせよ、関係者は当然世論を気にしますから、「目標」を定めて実行するに当たっては、世論の動向についても、或る程度の配慮をするべきは当然でしょう。

明治維新の時には、右を見ても左を見ても国家事業でした。当時は、全ての規範として「教育勅語」があり、「脱亜入欧」「富国強兵」「殖産興業」等のスローガンに異を唱える人はいませんでした。「鉄道は要らない」とか、「郵便制度は要らない」とか言う人はいませんでしたし、「軍艦の購入と建造」についても、その予算規模について意見は分かれても、その必要性を否定する人は皆無でした。

時は流れ、日本が灰燼の中から復興を果たす時期においても、「日米安保」や「自衛隊」を巡っては国論が大きく分かれましたが、「技術立国」「所得倍増」のスローガンは、概ね肯定的に受け止められ、日本人は徐々に自信をつけていきました。

しかし、産業の諸分野において日本の競争力がピークに達した頃から、様子が少しおかしくなりました。欧米先進諸国から学べる(真似られる)ところをほぼ学び尽くした日本人は、自分達の何処が本質的に強く、何処が本質的に弱いかをよく理解する前に、あまり根拠のない「自信過剰」に陥り、「目標設定能力」と「自己啓発能力」、そして、一つのピークに達した集団に最も必要な「自浄能力」を失いました。

「自信過剰」に陥った日本人は、「より付加価値の高い産業分野への転換」を計りつつあった欧米諸国と、「日本に追いつき追い越す」ことを明確に目標とした発展途上国の、双方の力を過小評価する一方、自分自身の「独りよがり(内弁慶)体質」については、反省するところが殆どありませんでした。

こんな時に華々しく打ち出された「列島改造論」は、それなりに説得力のある「目標」を国民に示しましたが、一方では「土地本位主義」に支えられた「金権政治」を生み、一方では「バブル経済」を生みました。グローバル企業として脱皮出来るチャンスを得た日本企業も、大きな投資余力を不動産投資で浪費し、特に次世代を担うべき「情報通信産業」分野では、さしたる力を世界に示すこともないままに、追い上げてきた韓国に、色々なところで後れを取る羽目になりました。

「日本列島改造論」の後、日本にはどんな「目標」があったでしょうか? 強いて言うなら、「民営化」と「規制緩和」によって、日本的な「特異な資本主義」から「普通の資本主義」への転換が、一つの「目標」だったのではないかと思います。しかし、欧米諸国が珍しくそれなりに評価した「小泉改革」が敢え無く挫折した現時点では、新しい目標はなかなか見当たりません。

(「民営化」路線については、「臨調」が活躍した「国鉄の改革」は、誰の目にも分かる見事な成果を上げましたが、「電電公社の改革」は、「NTT」の誕生によって或る程度の成果は出したものの、「巨大組織による実質的独占体制の温存」を防ぐための「分離・分割」は、政治の壁に阻まれて「先送り」を繰り返し、米国などに比べると「二周遅れ」の状況にとどまってしまいました。「郵政改革」に至っては、小泉改革の挫折と共に、完全な後戻りの道を辿りつつあります。)

民主党が政権をとれたのは、リーマンショックの原因となった米国の野放図なマネーゲームが、小泉-竹中路線の市場原理主義的な政策と重なって見え、これが経済危機から来る雇用の喪失や、それに伴う格差の拡大などの元凶と見做された一方で、小泉政権の後を継いだ三つの短命政権の何れも、これまでの閉塞感を打ち破るような明快な「目標」を打ち出せなかった故でしょう。

先の衆院選での民主党の大勝は、人気取りの「バラマキ政策」が、それなりの効果をもたらした一面もあるかもしれませんが、それ以上に、「官僚支配の打破」と「政治主導」のキャッチフレーズが効いたのではないでしょうか?「これによって、これまでの閉塞感を打ち破るような『何らかの目覚しい変革』が生まれるのではないか」という漠然たる期待を、一般国民は持ったに違いありません。

しかし、その後の情況を見ると、国民の評価は芳しくありません。「これまで惰性で行われた無駄遣いが、『仕分け』によって白日の下に晒され、否定された」という事にこそ、国民は大きな喝采を送りましたが、その他の局面では、能力不足が色々露呈され、主として経済と外交の両面で、「本当に任せておいて大丈夫なのか」という不安の方が大きくなり、期待は急速にしぼんでいきました。

この様な状況下で、政治的な権力を失った人達の中には、「現政権はこの情況を変えることは出来ず、年内には再び国民の不満が高まって、新たな『政変』の素地が生まれるだろう」と密かに期待する人達も多いようですが、一般国民の気持は、果たしてそれに同調するでしょうか? 

私には、国民は、もはや「政権の交代によって自分達の期待が実現される」事には期待をかけていないのではないかと思われてなりません。むしろ、これ以上政局が不安定になるのを望ます、「地味でもよいから、とにかく粛々とやるべきことをやってほしい」という気持ちの方が強いのではないかと思われるのです。

結論から言うなら、
1)「官僚支配と密室政治、利権政治の終焉」を、ここで手を抜かず、確実なものにする。(その為の最良の方策は、これまでにも増した「徹底した情報公開」である。)
2)経済運営は、「辻褄があっている」のが誰の目から明らかに見えるような形で、着実に行い、「将来に大きな心配はない」事を、国民に理解して貰えるように努める。
3)雇用を安定させる為の必須条件である「経済成長」をもたらす諸施策を、「国家目標」として明快に打ち出し、それが着々と実現していく姿を国民に示す。
の三つを確実に行えば、政権は保てると私は思います。
(「マニフェストが守れないこと」は、この機会に国民に率直に詫びるしかありません。)

さて、今回のテーマの「国家事業」は、上記の3)に関係する事です。その内容は、既に民主党が発表しているものから何も変える必要はありません。しかし、「何故それが必要なのか」「何故国がそれをやらなければならないのか」をきっちり説明し、その上で、「こうやれば、国民の税負担を最小にして、それが実現できる」という事を、具体的なビジネスプランの形で示す必要があります。(この為には民間から智恵を吸い上げる必要があります。)

先週の記事にも書きました通り、国民の多くは、「国がやる」と聞いただけで、「どうせまた税金の無駄遣いをするのだろう」と決めてかかる傾向があります。こういう「先入観」を作ってしまった過去の実績を悔いてみても、今更何の意味もありませんから、これからは、この様な国民の「残念な先入観」を前提にして、丁寧に説明をしていくしかありません。「丁寧に」の一環として、数字で説明する事は必須です。

我々実業の世界にいる人間にすれば、何をやるにも、数字の裏づけがなければ検討の対象にもなりません。これは、常識中の常識です。逆に、数字をきちんと分析して検証していくと、「これまでは考えても見なかったこと」が可能な事が分かる場合も多々あるのですが、一般の方々の中には、数字で物事を判断するのに必ずしも慣れていない人達も多いので、ついつい「先入観」をベースにして、色々なことを考えてしまうのでしょう。

「国でやるべき事」は、勿論、「国でしか出来ない事」ですが、それでは、「国でしかやれない事」は何かと言えば、

1)法制度を変えなければならない事。又は、行政権限の行使を必要とする事。
2)投資の回収に極めて長期間を要する為に、通常の民間企業では食指が動かない事。
3)「公益」と見做される範疇の仕事が含まれる為、一部で「国家予算(税金)の投入」、又は、「国による債務保証」が妥当と判断される可能性がある事。

の何れかに該当するものだと思います。

「今はよく見えないが、長期的に大きく国益に貢献する」という性格の事業が、「最も国家事業らしい」国家事業であろう事は、大体想定出来る事ですが、こうなると、その事について多くの国民の理解を得るのは、決して容易なことではない様に思います。(今投資する事によって、今雇用を生み出す事が出来ても、それが無駄な投資にはならない事を納得して貰うのは、容易ではないという事です。)

「世界はこれからどういう方向に動いていくか?」「従って、今何をしておけば、将来の国民にその『先見性』を評価されるか?」といった事は、余程洞察力のある人でなければ考えられないだろうし、「何事も不確定な将来の事について、今決断をする」という事は、余程の「使命感」と「度胸」がなければ出来ない事です。

だからこそ、これこそが、「国民の将来の為に身体を張る」政治家の最大の仕事であると、私は思うのですが、実際にそれをやれる政治家が果たして存在するかどうかについては、残念ながら私には分かりません。

コメント

  1. atoman0 より:

    光回線の需要を考えなければならないのは、コストと効用を天秤にかける選択肢があるからです。
    もし、デジタル放送をするかどうか、アナログ放送を続けるかどうかが各局の選択に任されていたとすると、やはり、デジタル放送の需要を考えることになったと思います。そういった市場的選択に任せるほうがいいのか、「計画経済」的に、一気にデジタル放送に替えてしまうほうがいいのかは難しい問題だと思います。
    「光の道」の場合、消費者にとっては、ソフトバンクの計算が正しく、少なくとも今以上の出費を強いられることなく同じサービスを受けられるなら、「どうぞご勝手に」と言うだけです。あくまでも、業者間の需要と供給の問題です。
    光回線が贅沢なものでなくなるなら、それが共有化によって実現されようと、どうでもいいことです。高速道路が、特定の自動車会社の所有物でないのと同じです。