教育予算を増やすことを主張する人々の論拠として、「教育は労働者の生産性を高め、賃金を高め、経済成長を促進する効果があるから、財政支出は無駄にならない」(人的資本形成論)というものがある。
実際にどれだけ成長を促進して税収を増やすのかという、定量的な議論はともかく、定性的には、いかにもありそうな気がする。いつの時代でも、大卒賃金(生涯値)は高卒賃金よりも何割かは高いのである。単純に、高卒が大卒に置き換わるだけで、賃金は上がり、経済は成長するように思える。
高学歴者の高賃金を説明する別の理論もある。それは、シグナリング理論である。高学歴であることが、努力家である、まじめである、知能が高いというシグナルになるから、優先して高学歴者が採用されるのであり、学校教育そのものは生産性を上げていないという。そもそも最初から生産性の高い人材が大学に進学しているだけなのである。
http://keijisaito.info/pdf/wage_human_capital_10ja.pdf
日本における実証分析では、どうやら、後者が優勢なようだ。大学教育は、労働者の生産性なんか上げていなくて、政府予算や家庭の教育費をドブに捨てているだけなのかもしれない。
もちろん、「教育は、社会を文化的に豊かにし、個人の人間性を発達させるから、経済成長や労働生産性とは無関係に行われるべきだ」という主張もあってよい。しかしながら、その場合は、もっと基本的な社会需要である、衣食住や安全、衛生との比較衡量を議論する必要があると思われる。
就職状況という切り口で見ても、高等教育の経済的無価値は明らかだと思う。
大卒の就活では、非常に愚かな競争が行われている。どこの企業も、大学の教育内容には何ら関心がなくて、ビジネスマナーができているとか、受け答えがしっかりしているとか、見栄えがいいとかいった学生を採りたがっている。
そもそも、3年生という、まだ半分しか大学教育が行われていない学年に対して企業がアプローチしていることが、採用者の目から見て、大学教育に価値がないことを示している。
大学院卒の就職状況については、論評するまでもないだろう。大学院重点化は、社会的需要がない博士を量産し、人的資源を無駄にしただけだった。
政府予算は、大学や大学院などの高等教育ではなく、初等中等教育に使った方が、(経済的に)まだましである。
教育論議は、個人の人生観や社会観が鋭く対立し、イデオロギー論争に陥りがちである。歴史教科書論争だとか、「ゆとり教育批判」がその典型である。
思想的対立には立ち入らず、社会を豊かにする(経済を成長させる)教育政策を考えるべきである。
コメント
全くその通りだと思います。生産性向上が目的なら、就職予備校を作ればよいのです。例えば、文科系なら、ここで履修するのは、「人間関係論」「応対のマナー」「交渉術(ディベート)」「プレゼンテーション」「コンピュータリテラシー」「英語」「基礎会計学」「基礎商法」等です。「根性論」や「耐久レース(実技)」等もあっていいでしょう(笑)。
企業側は、それ以上に「地頭」や「思想・信条」「性格」を確かめたいでしょうが、それは、各種の知能テストや心理テストと面接でチェックできます。つまり、教育とは殆ど関係のないところで評価が決まるという事です。
しかし、国として教育に金をつぎ込む事はやはり必要です。日本は民主主義国家なので、全国民の選挙への対応が思慮深いものであることが、国の運命を決めるからです。尤も、この観点から言うなら、現在のカリキュラムは大幅に見直しが必要です。歴史教育などは特に重要になるでしょう。
博士や修士が必要かどうかは、議論の分かれるところです。外国企業に就職する場合は、これはかなり大きなファクターになりますが、日本では、その分だけ実務経験が乏しいという事で、通常はむしろマイナスになっているでしょう。要は「将来どういう仕事をすることを目標にして、その為に何を研究テーマにしたか」という事でしょう。技術開発の分野ではもっとインセンティブがあっても良いかと思いますが…。