政策の内容(コンテンツ)と過程(プロセス)

池尾 和人

政策論が教室の中での経済学と違う点の1つのは、採用されてはじめて意味があるというところにある。どんなに論理的に整合的で高尚な提案であっても、実際の政策として採用されなければ、実践的には無意味である。この点を踏まえていない議論は、「床屋政談」でしかあり得ない。このことを逆からみると、経済政策の運営に関しては、その内容(コンテンツ)とともに、その過程(プロセス)が重要であるということになる。


すなわち、政策決定の過程が、系統的に整合性をもって有益な提案を拾い上げ、そうでない提案を排除するようなものとなっているかどうかが大切である。そうした機能をもつ政策決定過程が整備されていなければ、たまたまの担当者しだいで、ときに素晴らしい政策が打ち出されることがあるとしても、反対にとんでもない政策が実行に移されたりしかねず、少なくとも政策の一貫性は確保され難くなる。現在の民主党政権の最大の問題点は、こうした意味でのしっかりした政策決定過程が確立されていないことにあると思われる。

現状では、政策の内容をどのような過程を経て決定するかが未確立であるために、きわめて属人的な形で政策内容が決定されることになっており、担当者が誰であるかによって政策内容が大きく変更されてしまうような事態が蔓延している。その結果、政策内容の予測可能性や政策意図の共有といったことも、著しく低下してしまっている。

一例をあげれば、今回の尖閣列島問題にしても、従来は強制送還で対応していたのが、逮捕という対中方針の変更(と中国側がみなしかねない措置)が実施されたが、そうした変更の決定は、たぶん当時の(海上保安庁を管轄する)国交大臣であった前原氏の判断によるものとみられる。換言すると、一定のプロセスを経た上で対中方針の変更が行われたわけではないので、ほとんどの国民はむしろ日本の対中方針は変わっていないという思いを抱いたままであり、にもかかわらず中国側が突然に強硬な姿勢に転じたという受け止め方をしていると思われる。しかし、中国側からすれば、先にスタンスを変えたのは日本の方だという受け止め方をしている可能性がある。

こうした事態は不幸なことであり、政策決定が、一定のプロセスに従ってではなく,属人的に行われる場合に生じがちな弊害であるといえる。

かつての小泉政権の取り組みについて、私は正直に言って、その政策内容(コンテンツ)に関してはあまり評価していない。例えば、郵政民営化が「構造改革の本丸」などというはあり得ないし、その民営化の制度設計もきわめて不十分なものであったと考える。しかし、政策決定の過程(プロセス)を変革しようとしたことに関しては、高く評価している。

小泉政権は、それまでの自民党の政策決定過程、すなわち、内閣提出法案に対する与党審査(事前に政務調査会と総務会の承認を得なければ、内閣といえども法案を国会に提出できないといった)体制を打破しようとするなど、政策決定のプロセスを改革することに熱意を注いできたといえる。その一環として、少なくとも経済政策の決定に関しては、次のようなプロセスが小泉(およびそれに続く自民党)政権下では成立していた。

すなわち、1月に「構造改革と経済財政の中期展望」(後には「日本経済の進路と戦略」に改題)という企業でいえば中期経営計画に相当するものが閣議決定される(中期展望は毎年見直され、ロールオーバーされていく)。それを踏まえて春に議論が行われ、6月に当該年度計画である「骨太の方針」が閣議決定される。そして、夏以降、「骨太の方針」に従って予算編成作業が行われる。こうしたプロセスにかかわる議論の場が、経済財政諮問会議であった。

こうした年間サイクルによる経済政策運営は、きわめて合理的なものであり、ある意味では1990年代半ば以降の統治機構(政治・行政)に関わる一連の改革の成果といえるものであった。にもかかわらず、政権交代の後、民主党はこのプロセスを簡単に壊してしまった。代替的な仕組みとして「国家戦略局」を設置するということだったが、その構想も早々と挫折してしまう。創造なき破壊である。

この結果、中期経済見通しはもちろんのこと、年間プランももたないままに予算編成に臨むということになっている。しっかりした政策決定過程(プロセス)に立脚することなくしても、適切な内容(コンテンツ)の政策が立案され実施されていくと期待することは、たまたまの怪我の功名を期待するようなものである。急がば回れで、法律上は生きている経済財政諮問会議を復活させる(あるいは、新成長戦略実現会に実質的にそうした機能をもたせる)などして、政策決定過程を再構築することからはじめるべきではないか。