クルーグマンは、自身のブログ記事の中で、次のように述べている。
For the big concern about quantitative easing isn’t that it will do too much; it is that it will accomplish too little.
だから、量的緩和についての大いなる関心事は、それがやり過ぎにならないかということではなく、それがあまりに乏しい成果しかあげらないのではないかということである。
この点に関しては、私も同意見である。既に日米ともに、政策金利を事実上ゼロにまで引き下げ、その状態を長期にわたって続けることにコミットしている。このことによってかなりの効果(と弊害)が生じているが、これに量的緩和によって追加できる効果は、あまり大きくないと考えられる。
現代日本の金融構造が、先の拙記事「金融構造の今昔物語」の図4と図5(下に再掲)のように単純化してとらえてよいものだとすると、次のような<命題>が成り立つ。ずなわち、
<命題>
財政スタンス(財政赤字の累積額)が一定である限り、中央銀行がどれだけバランスシートを拡大させても、民間金融機関の貸出が増加しないならば、マネー・ストック(貨幣供給量)は増大しない。
この命題が成り立つことは、図5を見れば明らかである。中央銀行と民間銀行のバランスシートを連結してみれば、マネー・ストックは国債発行残高と民間銀行貸出の合計に一致することが確認できるから、国債発行残高と民間銀行貸出の両者がともに変わらなければ、マネー・ストックも変化することはない。図4の状態から、下の図4Bのように中央銀行が(国債を追加購入するなり、短期金融市場を通じて資金供給するなりして)バランスシートを膨らませても、連結すれば図5になることには変わりがない。
この命題は、前提を認めれば、そこから論理的に導かれるものなので、気に入らないなら認めなくてもよいといった性質のものではない。結論を否認したければ、前提を否定するしかない。換言すると、現代日本の金融構造の定式化としてより適正な代替案を提出するというなら話は別だが、そうでない限り、誰にも認めてもらわなければならない。このように、たとえ特定の立場からは「不都合」であっても認めるべき事項を明らかにできるというのが、「金融セクターの理論モデルをきちんと考え」ることの意義である。
なお、上記命題は、拙記事「『量的緩和』という物語」で述べたことの繰り返しにほかならない。そして、この命題の対偶を考えると、マネー・ストックが増えるためには、民間金融機関の貸出が増加するか、財政赤字の累積額が増加するかが必要なことが分かる。これらのいずれかの条件が伴わない限り、量的緩和それ自体は全く金融セクター内だけの出来事に止まり、実体経済には基本的に影響を及ぼさない。
中央銀行が懸命にそのバランスシートを膨らませても、世の中に資金が溢れるようになるわけではないというのは、直感には反することかもしれないけれども、「事実」だから認めてもらうしかない。こうした事情は、米国の場合も基本的には同じである。米国の中央銀行である連邦準備制度(FRB)が実施しようとしているQE2に関して、「この政策を簡単に表現すると、輪転機で6000億ドル分の紙幣を刷って、それを金融機関を通して市中にばらまくのである」といった理解が一般的だが、正確な理解とはとうてい言い難い。
もっとも米国の金融構造は、日本のそれよりもさらに複雑で、(海外を含む)民間非金融部門が現預金以外に国債や(証券化商品などの)市場性資産を直接に保有しているので、今回のQE2のようにFRBが長期国債を買い増す形でバランスシートを拡大させた場合に、上で述べたことに加えて、民間非金融部門の保有資産(の総額ではなく)構成を変更することになるという効果<ポートフォリオ・リバランス効果>が生じる可能性がある。わが国の場合には、ポートフォリオ・リバランス効果は民間金融部門についてのみ期待できるものであったが、米国の場合には、民間非金融部門についても期待できるとみられる。
しかし、(連結ベースで、資産・負債の両建てでの増加を除くと)民間非金融部門の保有金融資産総額の増加は、やはり民間金融部門の対民間非金融向けの信用供与が拡大するか、財政赤字の累積残高が増加するかのいずれかがなければ、起こりえない。この限りでは、米国の場合も上記の日本の場合と基本的に同じで、量的緩和それ自体には大した効果を期待できるものではない。量的緩和それ自体だけだと(民間金融による与信増あるいは財政赤字の増加を伴わない限り)、ゼロ金利制約に直面している状況では、ポートフォリオ・リバランス効果は、クルーグマンが別の記事で論じているように、発行済み国債残高の満期構成を短期化するのと同じ程度だと考えられる。
ならば、QE2の実施に伴って、民間金融部門の対民間非金融向けの信用供与が拡大するか、財政赤字の累積残高が増加するかするだろうか。前者は、量的緩和の「物語」としての効果しだいであろう。後者については、現状程度の財政赤字の継続をQE2は容易にするものではあるが、大幅な財政支出の増大が生じる(なり、減税が実施される)とは、現在の米国の政治情勢下では期待しにくいところがある。ならば、冒頭に引用したクルーグマンの見立てが妥当なところだといえることになる。
QE2の実施に伴って様々な効果や弊害が追加的に生じるという「物語」には事欠かないけれども、量的緩和がこれまでの伝統的な緩和に付加してどのような追加的緩和効果を生じるのかについては、それがどのようなメカニズムによってかを含めて、もっと「きちんと」示される必要があると考える。
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因みに、ファイナンシャル・タイムスのコラム、邦訳も類似の意見の述べている。
As in Japan, the policy known as “quantitative easing” is far more likely to prove ineffective than lethal. It is a leaky hose, not a monetary Noah’s Flood.
日本の例を見れば分かるように、「量的緩和」として知られる政策は致命的である可能性よりも効果がない可能性の方がはるかに高い。この金融政策はノアの洪水ではなく、水が漏れるホースのようなものだ。
コメント
量的緩和に景気刺激効果がないというのは米国でも共和党やEUの共通認識となっているようですが、米国の場合ドル安誘導で輸出拡大で景気回復という狙いがあるようです。実際に量的緩和はドル安を誘導しており、理屈から言えばドル安は輸出拡大の効果はあると思えるのですが、いかがでしょうか?
国債の買いオペ又は直接引き受けにはソブリンリスクを小さくする効果もあると思いますが、ここ数日のPIIGSの金利上昇に対しECBは極めて冷淡です。米国では今後MBSの買取大幅増額もありそうですが、金融のシステミックリスクの観点からすると量的緩和もせざるを得ないと言う気もします。EUと米国どちらが正しいのでしょうか?
そもそもQE2がドル安政策になるというのも、「物語」ではあっても、どういうメカニズムによるのかはそれほど定かではないですね。また、FREBとECBの対応の差は、制度的な制約条件の違いによるところが大きい。この点に関しては、拙記事「財政的支援が欠かせない信用緩和」を参照して下さい。
http://agora-web.jp/archives/1011994.html
素朴な疑問で失礼します。
現在、日本国の赤字は十兆円オーダーで毎年増加しています。池尾先生による議論ではsimplifyのため累積赤字を一定にされていましたが、毎年数十兆のオーダーで累積赤字が増大する場合には「図四・統合銀行B/S」資産サイドの国債が増加しているはずです。
この前提において、現状では図四の2部門間モデルにおいて国債発行残高の増加分はどこで帳尻が合わさるのでしょうか。
・貸出金の減少→B/S上で相殺されマネーストックも増加しない
・現金ないし預金の増加→マネーストックは全体として増加
ファクトベースの議論となってしまいますが、財政破綻云々が(妥当性は別として)巷で言われている中で、先生の議論は重要な前提を見落としていらっしゃると思います。
時間軸を入れて考えると、ご指摘のように年々、財政赤字の累積額が増加しているわけですが、それに対応して、民間部門の貯蓄投資差額(群青色の部分)が増えていると考えら得ます.要するに、毎年、民間の貯蓄が財政赤字のファイナンスに費やされていっているわけです。これに応じて、マネ-・ストックは年々増加しています。こうしたトレンドを除去した上で、金融政策の効果について論じていると理解して下さい。。
量的緩和の「効果が乏しい」ことは事実としても、「やり過ぎになる」リスクはあるのではないでしょうか。特に最近の金先物や穀物相場をみていると、QE2の効果はもっぱらバブルに出ているような・・・
池田さんの意見に同感です。
そもそも、民間銀行の資産が準備、国債、貸出のみですが、その他資産として有価証券が含まれていませんので、前提が正しくないと思います。
日本の銀行は多くは無いのですが、米国の投資銀行等は、国債以外の株式、商品、為替等の市場で運用する為、過剰流動性はバブルを引き起こす原因になってると思うのですが、如何でしょうか?
冒頭に「政策金利を事実上ゼロにまで引き下げ、その状態を長期にわたって続けることにコミットしている。このことによってかなりの効果(と弊害)が生じている」に記した通りで、伝統的緩和を極限までやれば、それで過剰流動性状況は生まれるし、資産バブルが起き易い土壌は作られます。実際、日本のバブルもこの前の米国住宅バブルも、量的緩和なしで起こっています。それにさらに「追加する」効果を量的緩和それ自体がもたらすという(通常の意味での)メカニズムは存在しないという話をしているわけです。
ただし、そうであるにもかかわらず、多くの人々が「量的緩和は一層の緩和である」という物語を信じれば、何らかの「効果」が生じる可能性はあります。これを「量的緩和の『物語』としての効果」と呼びました。こうした効果によって、民間金融部門が信用供与を拡大する(とか、投機に走る)とかいったことはあり得ます。しかし、こうしたいわば「期待を煽る」ようなチャネルしかない政策は、危険で好ましいものとは考えません。この意味では、「やり過ぎになる」リスクはあるといえます。
したがって、私はフェルドシュタインの「QE2 is risky and should be limited」という主張に賛成です。http://www.ft.com/cms/s/0/9ba381d0-e6b5-11df-99b3-00144feab49a.html#axzz157XgUHjy
QE2の場合には、 長期金利を下げるというのが大きな目的でないでしょうか? 長期金利が下がれば、住宅市場も活性化しますし、 住宅価格が上昇すればWealth効果も期待できます。適度のインフレは、 財政赤字の圧縮に貢献します。
一年前には、 多くの経済学者がQE1を批判しましたが、 QE1はなんとかうまくいったようです。
過剰流動性が生ずることにたいしては、 ブラジル・中国・ドイツ等の国々からいっぱい批判がありますが。
minouratさん、
イールドカーブはスティープ化(長期の方が金利が高い)しています。
まさに、「スティープ化=景気回復、株高」という物語効果を狙ったものでしょう。
「ジャブジャブ=資源高騰」という物語や長期金利高の及ぼす住宅市場へのリアルな効果の弊害の方が大きいと思いますが。
米国の貨幣乗数は1くらいなので、まさに量的緩和に物語効果しかない状態と言えますが、日本は低くなっているとはいえ、4くらいあったと思います。
これは、「財政赤字の累積額が増加している」のに対応してマネーストックが増えた結果というお考えでよろしいでしょうか?
当座預金は、日銀と民間銀行との決算完了性を持っています。ただし、ここでの受け払いは、元本が動くわけではなく、受け払いの差額のみを決済しています。このグロス決済から現在のネット決済への移行が大きく意味してると思います。
http://www.boj.or.jp/oshiete/kess/04203001.htm
この決済システムにより、決済に使われる通貨が極めて少なくなりました。
昔は、決算完了日に日銀本店まで銀行券を抱えて預金しに言ったということも聞きましたが、現在は裁定取引です。
だぶついてることも事実ですが、私も4倍くらいの乗数効果だと記憶しております。ただし、元本は動かしてないので、その乗数効果も眉唾です。
年間20兆ほど刷って、21兆ほど帰ってきて、それが機械にかけられ、選別され、使えなくなった紙幣が、シュレッターにかけられ、新しい紙幣を印刷局に発注し、無条件にシュレッター紙幣と交換され、印刷局には印刷代だけを払い、紙幣を受け取って、当座預金に入れられて、21.5兆ほど還流してくるといった逆噴射のような状態が今の日本かも知れません。水をバケツに入れて、非常時に備えるのか、効果が疑問なので、還流を避けるような措置が必要だと思います。
繰り返し、ご提言させて頂きます。
平成19年に始まった信用協会の緊急保証制度(銀行分担率20%。以前までは0%)これが始まったときから中小零細への融資がほぼ凍結しております。これを撤廃したらリフレ派の勝利かも知れませんがw