大手スーパーのイオンが、定額制のお布施を含む「安心の明瞭会計」をうたった葬儀事業を始めたところ、全日本仏教会が「仏教精神を踏みにじった」とイオンに抗議したと言う記事を読みました。
僧侶で作家の玄侑宗久さんは「お布施は『システム化』にはなじまない。遺族それぞれに寄り添う『変動相場制』であるべき」だと主張されます。私は「仏教精神」を語る時に「システム化」とか「変動相場」と言う言葉が出て来る時代になったのか!と、改めて時代の流れの速さを感じた事です。
鈴木大拙師や在家仏教の指導者であった加藤弁三郎博士の講和を、実際に聞く機会に恵まれた私は「講和」を通じて多くの人々に感動や感銘を与えて、進むべき人生を説く「徳育」が「仏教精神」の一つだとばかり思っていました。そんな私には「お布施が信仰の核心」だと言う全日本仏教会事務総長の主張は理解を超えています。
これが世に言う生臭坊主かと思った私は、「生臭坊主」の意味を辞書て確かめて見ますと「本来の生臭坊主の意味は戒律を守らない坊主のことであるが、転じて修行やお勤めをさぼり、金策のことばかり考えるような僧侶のことも指す。」とあり、私の解釈通リだと確認して一安心したところです。
それにしても、お布施が信仰の核心と言い放つ幹部への驚きは、とても自分の言葉で表現出来ません。そこで、中野孝次氏がその著「人は何を遺せるのか」の中で「墓」について述べた一節をお借りする事にしました。
「墓は作らぬと決心するにいたったのは、バブル期に寺々のあさましい仕打ちをいくつも見せられたからであった。あのころ、東京都の密集した墓地でも、緑のある横浜の墓地でも、鎌倉の古刹でも、無縁仏を探し出しては片ずけてゆくのが流行のように行われていた。わたしが見た鎌倉の墓地などは、幽邃と言っていい谷戸に苔むした古い墓は僅かしか残っていなくて、墓地のあらかたが新墓であった。区画整理されたままのまっさらな所もいくらもあった。金のためなら何でもすると言うあらあらしい世相が、こういう古寺の墓地にまで及んでいる事は明らかであった。わたしはそれですっかり嫌気がさした。」
私も「お布施を信仰の核心」とする仏教精神には、すっかり嫌気がさしました。
これでは、理想的な人物像を後世に伝える講和ができる筈もありません。私が宗教家に期待した講和の一例を、相田みつを師の「一生感動一生青春」の一節に見つけましたのでご紹介します。
「『おはよう御座います。毎朝良くご精が出ますね!』黙々と草刈をしている男の人の、がっしりとした背中に私は声をかけました。年の頃64-5歳でしょうか。私が毎朝運動のために歩く道筋に市の観光名所になっている『H農園』があります。5月の藤の花で有名なところです。-中略― 草の生えている斜面は、幅約三メートル、長さは三百メールもあります。一人で刈っているのですから三百メートルの長さは大変です。私は初めの頃は『この人はH農園の従業員で、ここの草刈を専属でやっているんだな』と、単純に見ておりました。ところがそうではなかったのです。あとでわかったことですが、この人は農園とは全く関係のない人でした。Uさんといって、元の小学校の先生でした。-中略― さて、このUさんの行為は全く無償の行為だったのです。報償を貰おうとか、誰かに褒めて貰おうとかそんな気持ちは全く無いのです。ただ、草を刈り、ただ花を咲かせているだけです。しかも一生懸命に、そのことに打ち込んでいるんです。私は毎朝Uさんの姿を見るたびに『自分にはこのまねは出来ないなあ』と、心の中でいつもつぶやいております。-中略― ある夏の日の炎天下。Kさん達生徒は校庭で校長先生の話しを聞いておりました。校庭の地面ははやけつくような熱さ。生徒はみんなハダシです。焼けたフライパンの上にいるようで足の裏が熱くてたまりません。じっと立っていられません。そのうち一人の生徒がガマンできなくなって、足をばたばた動かしました。するとそこへB先生が飛んできて『何をじたじたばたしてるんだ!』といきなり生徒をなぐりました。その様子をみていた若い男の先生が、B先生の腕を押さえて『この生徒をなぐるんだったら、この自分を殴ってくれ、生徒はハダシだ。B先生、あんたは靴を履いている。ハダシの生徒の足の熱さが靴を履いている者に判るか!!』と仲裁に入ったというんです。-中略― この若い男の先生はいわゆる教員としては出世コースを歩けなかったようです。人間的にはいい人でしたね。そしてKさんは更に言葉を足しました。『相田さんが毎朝見かけると言う、あの川岸で草を刈っている人ね、あの人はね、実はあの時、なぐられた生徒を身体を張って守ってくれた若い先生、その人なんですよ。U先生というんです。U先生のような人をほんものの教育者というんじゃないでしょうか』私は感動してうなりました。」
「お布施が信仰の核心」と考える生臭仏教が、U先生の生き方を徳育の例に挙げて教える事は不可能です。
宗教法人が税制面で優遇されながら、脱税に悪用する事例が後を絶たない状況を考えますと、生臭仏教は無理に宗教法人を名乗らずに、営利法人に改組して思い切り金策に励んだら如何でしょう。
コメント
お金は不思議なものです。
サービスや物の代価としても使えますが、気持ちの表現でもあります。募金箱に入れる1円と1万円では文字通り1万倍気持ちの重さに違いがあると思います。
お布施は感謝の気持ちの表現だと思います。年収が1億円の人と100万円の人では同じ10万円のお布施でもその気持ちには大きな違いがあるでしょう。イオンの定額制”お布施”はその意味で感謝とか気持を考慮していません。僧侶は葬儀を取り行うサービス業なのでしょうか?様々な考え方があるとは思いますが、明瞭会計ばかりが良いとは思いません。
宗教活動に資金が重要なら、その資金はいくらあればいいのか、リーズナブルな価格はどの程度なのか、はっきりしてくれればいいんですね。はっきりしてもらうと困るのは、不当に儲けたい、あるいは楽して儲けたいからではないんですかね?
坊さんの必要経費と日当を計算するのなんて簡単だと思うんですが、それこそ何が食べたいかで違ってくると言うんだったら生臭の謗りは免れないでしょう。
感想
坊主だからって、何でも無償や格安でできるわけでもないでしょう。寺の維持費もいるし、作法には道具も必要ですしね。
生きていれば人とのつきあいもありますし、地域の人の「指導者」めいた役割を担おうとするのなら、文化的な素養も必要でしょう。この世に生きる以上、美しい理想ばかり掲げているのが立派だとは言えないと思いますし、清貧なだけの老僧では不十分ではないかと思います。
そもそも、葬儀で経さえあげてくれればいいということなら、CDで流せばよろしいのです。
大半の方がそれをしないのは、何かはわからないが、その「何か」を大事に思う人が多いからでは?
一般的には、地域のつながりであったり、人と人のふれあいであったり、坊主自身のありがたみなどを加味しつつ、故人を大切に送りたいと思う人が多いのではないでしょうかね。それを「葬儀」という、安直なセレモニー化をやって、それでもうけようとするのなら、そっちのほうが、不謹慎かと思いますが。
イオンの「明瞭会計」で葬儀の仕事の発注を受けたお坊さんが、生臭くないって言うんでしょうか?
生臭坊主を擁護する人たちは、一体なんなんでしょう。
普通に社会生活を送っている者なら、葬式でチーンと形ばかりのお経を上げてぼろもうけ、外車を何台も乗り回し豪遊三昧の好色坊主だらけということが分かっていそうなものですが。
坊主が地域の指導者って、明治時代じゃないんですから。
日本の葬式は、明らかにぼりすぎ、高すぎです。
不在高齢者の問題だって、石原慎太郎あたりはモラル低下にばかり結びつけますが、誰もが彼のような金持ちではない。
高すぎる葬式代に起因している部分はあるはずです。
昨今の世相から、伝統回帰的心情に至ることは分かりますが、偏狭な伝統原理主義になっているのでは。
左翼はイデオロギーに執着する余り、米軍、自衛隊、海上保安庁が日本を守っている現実が見えないわけですが、
保守派もコインの裏表ですね。
生臭坊主の現実が、まるで見えていない。
伝統を大切にするのは結構ですが、
腐った部分は是正すべきでしょう。
あと、イオンというのもあるんでしょうね。イオン=岡田=民主党=左翼=敵だ!! みたいな。
もっとも、北村さんの記事にも違和感はありますけどね。
私は今40代ですが、たぶん50代から下の世代で、仏教でモラル形成している人間は殆どいないと思います。
生臭坊主も困ったものですが、徳の高いお坊さんも、さほど必要とされていません。
寺や神社は、「静かな公園」みたいな場所としてあってくれればそれでいいです。
こんなことを書くと、「あの静けさを保つには、深い精神性の伝統が…」とか言われそうなので、先回りして言っておくと、色々面倒なら別に寺なんかなくてもいいですわ(笑)。
お坊さんにも色々といるでしょうが、いわゆる生臭坊主が大勢いる事も確か。
お葬式などでお坊さんに包むお金など、お坊さんは「お気持ちで」とおっしゃいますが、現実には相場がある程度きまっていて高額な金額を取られる事が多いようです。包んで渡すお金が少ないと言って、火葬場まで行かないとかいう事を言うお坊さんもいたそうです。
そういう現実もあり、葬儀を出す人は貧しくとも無理をしてお金を用意しなければならず、負担が大きい事もあるでしょう。ましてお年をめした方で喪主になる場合、その負担を捻出するのも容易ではないでしょう。
これは私の母から聞いた話で、母は葬儀場に勤めているので、その辺りの事情にも通じています。
彼らは、知らずに脱税しているのではなく、確信犯。その脱法ぶりは、「生臭坊主一家」にとどまらず、在家の親族(一般家庭)をも巻き込んだひどいものです。
教会もモスクも神社・仏閣も、創始者であるイエスやムハンマド、釈迦達が本当に伝えたかったこととは無縁の営利集団に堕してしまっているからこそ、各種新興宗教の跋扈と、犯罪が世界中に蔓延しているのでしょう。
日本でも、宗教法人をタブー化せず、実際にどのような活動をし、どのような問題がおきているのかを重視して対応しておれば、オウム真理教事件の被害者はもっと少なくできただろうし、世にはびこる既存宗教の宗教に名を借りた営利事業の規制も可能になると思われる。
オウム真理教、ライフスペース、法の華三法行、加江田塾、聖神中央教会、摂理、エホバの証人、真理の友教会、創価学会、立正佼成会、幸福の科学、靖国神社等の活動に様々な行過ぎや人権侵害等の公共の福祉に反するものがあるという訴えは多く、国会でも何度か取り上げられ、不当な宗教活動に対して警告を発する「不正なる宗教活動に対する決議」がなされたこともあるが、実態としては、「宗教の自由」「信教の自由」という名の下に見過ごされてきた宗教団体による人権侵害等に対し日本は無防備のままである。
日本の各教団の誘訪方法は、旧教・新興宗教ほぼ同じで、まず美辞麗句で誘い、詳細を知らせず入信させ、実践させ、精神を変え、信仰中に不幸が起きれば信仰していたからそれで済んだと言い、成功事例はそのまま信仰のおかげにする。そして「やめたら不幸になる」と脅す。
「日本宗教連盟」を初めとする宗教界には自浄作用は期待できない。
大事なことは仏教のほんとうの教えを知ることだとおもいます。 ブッダは自分が亡くなるときに、葬儀は在家者に任せておけばよいといっておりますし、 親鸞は死んだら「加茂川に入れて魚にあたうべし」といったと「改邪鈔」に書いてあります。
仏教は「無義をもって義とす」という言葉の示すようにむつかしくもあり、 「一文不知の愚鈍の身になして」というほどかんたんでもあります。 ただ、徳育は仏教の本来の目的ではないとおもいます。 鈴木大拙は、仏教の本質を「真如」といっております。 私は、これを何事にもとらわれない「大いなる(精神的な)自由」ととらえています。 キルケゴールは、 宗教的な知恵を悟性とよび、これは理性・道徳・倫理を超えるものと考えています。
いまでも、 仏教を深く理解しておられる僧侶の方も、 仏教をまともに学ぼうと努めておられるひとたちも、 捜ししていけばおられます。
葬儀の「明瞭会計」に文句をいうつもりはありません。 これらからのあがりで本山の教学研究所等も支えられているのだとおもいます。
ただ、仏教の教えが日本から消えていくのはさびしいことです。
「講和」は間違い 正しくは「講話」
何度も出てきます。
擁護するわけでは無いですが、宗教は元々ただの互助組織に過ぎないと思いますよ。
組織の共同幻想が「血」なら貴族、「地」なら武士、「神・仏」なら宗教、「終身雇用」なら日本企業(笑)というだけでしょう。
社会から弾き出された弱者を構成員とすることが多いから、一見慈悲深そうな教義を掲げているだけで、 本質は他の互助組織と変わりません。
当然、税金免除などの特権も本来不要ですが、政治力があるから回避出来るんでしょうね。
>いまでも、 仏教を深く理解しておられる僧侶の方も、 仏教をまともに学ぼうと努めておられるひとたちも、 捜ししていけばおられます。
仏陀の素晴らしい教えを、自ら広めることが宗教者のつとめなのではないですか。怠惰な上から目線で「捜せ」とはなんですか。4.で書きましたけど、現代日本人は仏教など必要としていないのです。そんなに素晴らしいのなら、そちらから教えに来るべきです。
>葬儀の「明瞭会計」に文句をいうつもりはありません。 これらからのあがりで本山の教学研究所等も支えられているのだとおもいます。
寛大で謙虚そうに振る舞いつつ、生臭坊主問題には触れようとしない狡猾な物言いですね。仏教関係の方のようですが、あなたたちの同業者の多くが暴利をむさぼり俗世の快楽に溺れていることへの、自浄作用を発揮する気はないのですか。「大事なことは仏教のほんとうの教えを知ることだとおもいます。」といった漠然とした綺麗ごとは、何も言ったことになりません。
生臭坊主をどう思っているのか、具体的に語るべきです。
「仏教精神を踏みにじる」云々はその発言の動機を勘ぐれば語るに落ちており「お前が言うな」ではありますが、純粋に言説としてはもっともな気がしないでもありません。冠婚葬祭の時だけ信じてもいない宗教の意匠だけ借りてくる日本の習慣って私はどうも好きになれません。葬儀ビジネスだというなら無宗教でやるべき。まあ、鎌倉以降の日本の「仏教」はそもそも仏教じゃないから別にいいのかもしれませんけど….
寿司屋が「時価」で商売したいと言っているようなものですね。
寿司屋の時価は商売のやり方の話なのだから問題ありませんが、仏教の場合は、その商売根性を宗教教義や信者さんの信仰心でごまかして、隠蔽している浅ましさだと思います。まあ当然のことではありますね。教義や信仰心がなかったら、最初から成り立たない商売なのですから。
ほんとうに仏教精神があるお坊さんなら逆に、どうどうと値段を示すものではないでしょうか。
きちんと値段を示して、ほんとうに貧乏で困っているひとには非公式に無料にしているような、そんな「仏ごころ」のあるお坊さんだって、おられるんじゃないかと思います。しかし、戒名に値段をつけている時点で、地に落ちているということなんでしょう。そう思って軽蔑しているひとは大勢いることでしょうね。
多くの人が、生臭坊主に問題を抱いているようで喜ばしく思います。逆に擁護していた人たちは、何も言い返せないままでいますね。内実を検証することなく(いや、あえて目を背けて)、それこそお題目のように「伝統は大事」「仏の教えは大事」と言い募るしかできない人たちなのだから当然でしょう。
こんな話があります。母子家庭の貧しい知人が、それでも亡くなったお母さんの葬式を普通に出すことが出来ました。お母さんが葬式代を残しておいてくれ、知人もそのお金を生活費などに使うことはしませんでした。別に二人とも宗教心が篤いわけではありません。お母さんは「葬式も出せないようでは息子が恥ずかしいだろうから」と葬式代を残し、知人もやはり、「葬式も出せないようでは恥ずかしい」と葬式を行ったのです。
この「恥ずかしい」がポイントです。4.で書いたように、坊主が地域の指導者なんてちゃんちゃらおかしいですが、田舎では隠然とした権力を持っていることは少なくありません。政治家、役人、医者…などと結託して、支配層を形成し、自分たちの都合のいいように庶民の生活に干渉しています。
葬式に関してもそうで、「貧乏だろうがなんだろうが、親の葬式を出すのなんて人間として当たり前。出来ないなんて人でなし、甲斐しょうなしだ」という価値観を強制しています。坊主は、宗教心なんてどうでもいいのです。とにかく、葬式代を沢山包む檀家こそが立派な信者なのです。仏教なんてものは、宗教でもなんでもない。田舎社会特有の同調圧力を利用して、あらゆる人間から金を搾り取ろうとする葬式ビジネスです。
しつこいようですが、もう一つ。
徳の高いお坊さんもいるという件について。そういうお坊さんは田舎寺のように自ら手を汚す必要のない、立派なお寺の奥の方にいるのではないですか。鈴木宗男に対する、鳩山由紀夫のようなものです。鳩山さんも、政治家ではなく、坊主になって「友愛」を説いていれば徳が高いと尊敬されていたかもしれません(笑)。
実際、そんなレベルだと思いますよ。ありがたがっている人は、山の上の立派なお寺、高僧の肩書き、重々しい口調とかにやられているだけなんじゃないですか。だって、言っていることは、どうとでも取れる観念論や、漠然とした綺麗事ばっかりですから。街の占い師と何も変わらない。いや、日本中の街角で、お馬鹿な女の子達に救いや元気を与えているという意味では、まだマシかもしれません。坊主達は、寺にふんぞり返って、「貧乏人ども、金持って来いやあ」ですからねえ。
日本には「坊主丸儲け」という言葉があるくらいですから、
むかしから僧侶とお金の密接な関係については、
よく理解されていたと思います。
そういやあ、志ん生18番の落語に
「黄金餅」てえのが、ありましたっけなあ~
そもそも僧侶|神主|牧師|神父さんに拝んでもらう必要があるのだろうか。葬儀なんてものは、息子さんら継承者の為に行われるものでしょう。
結婚式に人前式があるように、葬式だって人前式で構わないし、墓だって本当に必要なのか疑問だ。
私的には直葬と散骨で全て円満だ。香典や香典返しも廃止し、弔電もメールならタダだろう。
Web上だけの葬式や墓地も考えられるけど、これだと参列や墓参りが楽でヨサゲですね。
戒名が欲しければ自分で作るなり、ボットにつくってもらうなり、また戒名作成支援ソフトも考えられ、これなら院号や殿や居士や大姉もつけ放題。しかもタダ。
> 10. passer2000 さん
私の仕事は仏教関係ではなく、 ソフトウエア関係です。 中年になって仕事・家族のことで心身症・うつ病になるまで仏教にとりたてて関心があったわけでもありません。 そこで、 カウンセラに合いましたら、「Feeling Good」という本をすすめられました。 また、ポジティブ・シンキングの本かと気乗りしなかったのですが読みはじめてみると、 内容は浄土真宗ではないかとおもいました。 母が浄土真宗に熱心でしたので、あるていど教義は知っていました。 また、 うつ病の治療には宗教が一番効果的であるという医学的試験結果がいくつもでているということで、 ひとつ仏教を学んでみようとおもったわけです。
運がよかったことに、 宗教学の先生に、月に2回ほど会って、 本で読んで疑問におもったことを質問することができました。 真宗大谷派の教学研究所長に会い、仏教を良く理解しておられる近くの僧侶の方を紹介してもらったこともあります。 こうしているうちに、以前とは考え方も変わり、 心身症・うつ病もなおりました。
仏教を理解することは、 簡単ではありません。 五木寛之氏は、 数年間も休筆して龍谷大学で学ばれました。 しかし不思議なことは、 母とよく話をしている田舎の無学なおばーちゃん達が、 浄土真宗の真髄をよく理解しておられることです。
> 生臭坊主をどう思っているのか、具体的に語るべきです。
私は、 浄土真宗の僧侶の方が浄土真宗の教義と異なることを話されるのはよく耳にしますが、 「生臭坊主」の方には会ったことがありません。 逆に自分が50になってようやく知ったことを、 この人たちは、 20・30代で知ったのかと思ったことはよくあります。
「生臭坊主」減らすには、住職の世襲制をやめるのがひとつです。 これは政治家にもいえます。 しかし、 もっと大切なことは、 各自の宗教的理解を深めることです。 釈尊は、「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」といったということです。親鸞には「非僧非俗」の言葉があります。 「生臭俗人」が「生臭坊主」を非難するのはすこしひっかかります。
> 鎌倉以降の日本の「仏教」はそもそも仏教じゃないから
鎌倉仏教は大乗仏教をさらに発展させたものです。 大乗仏教が釈迦の教説から離れているので、これを仏教でないというひともいますが、 私は仏教は多くの先達によって継承・発展されてきたものだとおもいます。
ライシャワー氏は、 日本の文化でその時代の水準をぬいたものが二つある、 その一つは日本建築であり、 もう一つは鎌倉仏教であると述べています。簡素な長方形を基本とする非対称な日本建築の影響は西欧の現代建築に広く認められます。
親鸞や道元の思想には、ルターやカルビン、さらに後にはキルケゴールの思想とに共通点が認められます。 鎌倉仏教は西欧の宗教改革に250年ほど先だちます。
16 さん
あなたのいわれることは、 すくなくとも浄土真宗の教義によるかぎりすべて許される事です。 他の宗派に関してはよくしりません。 ただ、禅宗については、 鈴木大拙が本質は浄土真宗と同じだといっていますので、 浄土真宗の教義が大乗仏教の教えであるとおもっています。 (親鸞は大乗仏教徒であって、浄土真宗教徒ではありませんでした。) ただ、永平寺や久遠寺でおふだを売っているのを見て「あれ」とおもったことがあります。
真言宗等の密教系宗派については全然しりませんが、 仏教はたたり・まじない・霊魂・身分制を否定しています。 鎌倉仏教の始祖はよくこれだけのラヂカルな考えを主張したものだと感心します。 法然・親鸞・日蓮が流罪になったのもむべなるかなです。
大乗仏教の中心概念である「真如」とか「空」を言葉で説明するのは難しいです。 「仏のいのち」・「とらわれのないこと」・「自然(じねん)」・「大いなる自由」といいかえできますが、 観念論だといわれれば観念論になってしまいます。 これを理解するには、 5年・10年とかかるようです。
>親鸞には「非僧非俗」の言葉があります。 「生臭俗人」が「生臭坊主」を非難するのはすこしひっかかります。
どういう意味かは分かりませんが、私は仏教の教義や用語など何も知らない無宗教者ですし、4.でも書いたようにそんなに素晴らしいなら教えに来いという立場なので自ら理解する気もありません。色々専門用語を使って語っていますが、仏教マニアにしか通じない話に何の意味があるのでしょう。
私自身は葬式なんか出す気もないので、実は今回の問題はどうでもいいのです。しかし、私と同様に仏教など何も信じていないのに、気の弱さや世間体につけこまれ、同調圧力に屈して法外な葬式代をむしり取られる友人知人たちが余りにも気の毒なので声をあげました。まあ、NOと言えば済むだけの闘いすらしない彼らにも、大いに問題はあるでしょうが。
ちなみに、こんなニュースを見つけました。私なんかがむきにならずとも、不要なものは自然に淘汰されていくようです。
http://mytown.asahi.com/areanews/hiroshima/OSK201011200136.html
イオンの取り組みは素晴らしいと思います。
イオンの取り組みが自分には合わないと感じるのならば、イオンに頼まなければいいだけだと思います。