「無事これ名馬」が日本を駄目にする ― 大卒就職難に思う

北村 隆司

大学生の就職問題は、漢方の様に全体の調子を整えることで結果的に病気を治していく他ありません。症状だけを見て「臓器」や「組織」に病気の原因を求める西洋医学的な方法では、長期的な解決は出来ないと思います。


自力再生が必要な今日、日本の企業文化の最大の問題は、安全第一の「無事これ名馬」の考えです。右肩上がりの経済が続いている時代は、自分で方針をきめる必要もなく、ひたすら欧米の後を追えば済みましたが、今はそうは行きません。

松岡氏によると「日本企業が最も欲しくない人材は『優秀で会社への忠誠心が低い人材』で『黙って言うことを聞く人材』を何よりも求めている」由。これが本当であれば、日本企業のの活性化、ひいては就職難の解消は見込み無しです。会社への忠誠心は、企業が求めるのではなく、生き甲斐を感じた社員から自然に出て来るのが本来の姿です。

1960年代にShockley Semiconductor Laboratory の経営方針に反旗を翻して、一斉に退社したインテル創業者のムーア博士以下8人の研究者などは、日本企業から見ると、最低の人材なのでしょうか?

然し、その「最低社員達」が、現在では9万人近い社員を誇るインテルやシリコン・バレー最大のベンチャーキャピタルとして、多くのハイテク企業を育てたクライナーパーキンス、高度技術を駆使した部品大手企業にに成長したテレダインなどを起業した事は忘れて欲しくありません。

CDCのノリス、クレイコンピューターのクレイ博士、アムダールの法則で有名なジーン・アムダール博士など、スーパーコンピューターの歴史を担った逸材は、全て会社の方針とぶつかって飛び出した人材でした。

この様に、安定や愛社精神より、挑戦や信念を大切にする人材が、企業の新陳代謝と新しい雇用機会を生んできたのが、米国の奥深い力です。有能な人材に、その能力に相応しい責任と権限を与えて処遇すれば、生き甲斐を感じた従業員からは、自然発生的に愛社精神が沸き起こるものです。米国の大多数の人は、年功序列を不公正と考えており、年功序列を導入すれば、有能な人材から真っ先にいなくなります。(但し、米国の労働組合は、能力より年功を重視する制度に固執しています)

90年代初頭までは、日本の企業戦士がエコノミックアニマルと嘲笑されながら、日夜を分かたず、会社への忠誠を誓って戦った結果、量的には世界が羨む成功を果たし、その美酒に酔っていたものです。経済企画庁長官に就任した堺屋太一氏は、当時の情景を、平成12年の経済白書の巻頭言で「世界の文明の流れは、規格化、大量化、大型化の方向から、多様化、ソフト化、情報化に向きを変えており、日本の経済体質の立ち遅れが目立つ様になった。」と表現しています。

現在の就職難の責任の一端は、この変化を認識せずに、時代遅れな教育を繰り返した文科省や大学当局と、過去の成功体験が捨てきれない企業にあります。現在の中国は、戦後日本が成功した「規格大量生産型工業ビシネスモデル」を繰り返しているのであり、日本の競争相手やビジネスモデルにすべきではありません。

加藤氏は就職難を「理工系学生が少なすぎる」ことに原因を求めていますが、今の日本が必要としているのは、質であり量ではありません。量を求めた途端に、規格大量生産型モデルへの回帰を招き、中国と安値競争と展開する事になります。

日本で、良く使われる「優秀」と言う単語も私には意味が判りません。社員の能力査定に欠かせない、「ジョブデスクリプション(職務内容を記載した雇用管理文書)」の翻訳すらない日本で、何を基準に優劣を決めるのでしょうか?

これでは「スポーツ選手と言う名の総合職」で採用したアスリートを、人事が相撲、野球、テニスなどに振り分ける様なもので、これ等の「総合職」が世界の強豪と伍して闘える筈がありません。このあいまいな基準で「有能、無能」に分ける事が、有名校出身などのブランドを持たない優秀な社員のやる気を失わせ、企業の活性を無くし、結果として雇用の機会を奪う悪循環を起すのです。

「日本の学生の就職氷河期というのは景気の悪化による一時的なものではなく、今後も恒常的に続いていくものなのだ。しかし長い目で見れば、日本の学生が就職できないというのは日本にとっていいことかもしれない。今の大学教育は今後の大きな変化の前の過渡期なのかもしれない。筆者は日本の大学教育がよい方向に変わっていくことを切に願っている。」と言う藤沢氏や、「就職難の根本的な原因は、必要のない教育を受けてプライドだけ高くなった大学生が多すぎることなのです。今後は、専門学校のような実務教育に重点を移すべきでしょう。」と言う池田先生のご指摘には、私も賛成せざるを得ません。

日本の大学教育には魅力を感じませんが、池田先生が触れた、日本の工業高専教育は世界に誇れる傑作で、米国の旧農工大学やコミュニテイーカレッジが必要とするモデル其のものです。文科省さえその気になれば、私自身先頭に立って米国が必要とする教育モデルとして、高専制度の普及に努めたいくらいです。

杉本氏や池田先生が言われる「 強すぎる雇用規制によって、労働市場が硬直化したことで、この問題を解決するために雇用規制の緩和を行い、ノンワーキングリッチな高給社員の解雇をもう少し楽に出来るようにすれば、若者を積極的に採用できる」事は既に先進国で実証された事実で、大卒者の就職難解決の数少ない即効薬になる可能性大です。

アメリカの教育制度も曲がり角を迎え、甲論乙駁が続いたいますが、現在の日本企業や大学のニーズに合った教育制度にCOOP大学制度があります。日本の教育、産業関係者も、就職難に悩む学生の為に、是非注目してほしいものです。

コメント

  1. kiokada より:

    私はバブル世代ですが、大手電機メーカーのソフトウェア開発部門に新人研修で入る際に、「一番優秀なのは高卒の人、次が高専卒で大卒はあてにするな」と本社で言われて送り出されました。

  2. galois225 より:

    大学教育を企業や社会の要請に沿うようにするというのは、理工系の学部にとってそれほど簡単なことではありません。 卒業生の就職先は多種多様ですので、基礎的な数学、物理学、化学が共通の土台でそこから上になると具体的にどう役に立っているのかが不明です。  東工大で卒業生にアンケートをとったところ、一年次に学ぶ、線形代数、微積分が一番有用度が高いようです。 しかし、私の観察するところでは、研究職でなければ、大学で学んだことが直接役にたつのは基礎の部分で、それから上の卒業研究などは、論理的思考訓練といった無形の形で役に立っているような感じを受けます。 技術は日進月歩なので、実務的に見えるプログラミングなどの訓練が直接役に立っているというようには見えません。 結局、基礎ができた
    、自律的に考えられる人材というやや抽象的なところが、求められる人材なのかなと日頃思っています。

  3. minourat より:

    > 大手電機メーカーのソフトウェア開発部門に新人研修で入る際に、「一番優秀なのは高卒の人、次が高専卒で大卒はあてにするな」と本社で言われて送り出されました。

    これは、本社の人事部の認識不足もしくは大学卒の能力不足もしくはこれらの両方のいずれを指摘しているのでしょうか?

    今は、 過去40年間に開発された膨大な量のソフトウェアの開発に有用な理論・道具があります。 これらをなんとか消化するには大学院の修士レベルは必要と思いますが。 マイクロソフトなんかは、ソフトウエアの開発要員として多数の博士号取得者を採用してます。

    私の経験では、 日本の社内教育の60%は時間の無駄であったと思っています。

  4. kotodama137 より:

    少し違和感を感じます。東洋医学は未病治が中心なので本題と少しずれるかと。
    また。それぞれの方の意見もそれなりに正しいと思いますが、中小企業の社長さんのなかには別の考えの方もいるので、少し報告します。

    単直に言うと利益を上げる会社でなく、生き残る会社を目指すという思想です。このような会社で必要な社員は、忠誠心の高い社員ではなくて、生き残ることに協力してくれる社員です。当然社は恩を感じでしょう。それで、顧客満足度より社員満足度を重視します。それは、社員は会社が生き残れるような仕事をしますので、必然的に顧客満足度があがるという考えです。大体家族的企業になります。

    またこの手の会社での社会貢献の考え方に特徴があります。エコとか地域清掃なんかもしますが、一番の目的は社員の生活を守ることが社会貢献、とくに地方経済のためになると考えていることです。伊那食品さんは、取引先の生活を守るということで、創業以来取引先を変えていないそうです。伊那食品さんは、特出した企業ですが。とにかく社員の生活のために不況だろうが、社長が急死しようが生き残るという思想なんだそうです。それは、100年生き残る会社が非常に少ないということからきています。しかし日本では伝統的にこの思想があるようで、100年以上続いている会社数では、日本は世界一ということです。無難に続いている会社はやっぱり名社なのです。
    ただこのタイプの企業は、身内の社員が増えることや大きな企業にならないとか欠点も見えます。また地元に根を完全に下ろしているので、海外進出もしづらそうです。募集数が少ないので就職希望の学生さんが見つけづらそうです。

    自分も経済成長型思想でしたが、池田先生の意見を聞くうちこういう会社の思想もありかと思っています。