法科大学院の闇

山口 巌

此の週末に、大手総合商社に勤務する友人から相談を受けた。長男が法科大学院に進学すると言うのである。
相談と言っても、既に4年生の此の時期であり、愚痴を聞いただけの事かも知れない。

友人の長男が通う大学は、都内の所謂名前は聞くが、今一ぱっとしない私立大学であり、就活の困難を回避して、司法試験を目指す背景は理解するものの、司法試験に果たして合格出来るのか?合格出来ない場合どの様な道が用意されているのか?と言うのが友人の危惧であり、尤もであると共鳴した次第である。

友人と別れてから調べてみたが、色々問題があるようである。率直に言えば、非常に杜撰な制度設計としか思えないのである。

先ず第一は、政府に拠る年間3,000人もの司法試験合格者数の設定である。

2011年1月時点での日弁連登録弁護士数が30,447人である事から考慮すると、市場での吸収可能な新米弁護士の数はせいぜい1,000人程度と推測される。

実際、昨年の司法試験合格者数は、政府目標を大きく下回る2,100であるが、職に就けない司法試験合格者が多数出るのではと危惧されているらしい。

次は、司法試験合格率の問題である。法科大学院のキャリアパスを選択した以上、兎に角、先ずは司法試験に合格しない事には、話に成らない。

従って、法科大学院と司法試験の関係は本来、自動車講習所と自動車免許証の関係の如く、余程適性が無い限り、資格獲得まで学校は面倒見るべきと思う。

しかるに、昨年度の司法試験合格率は25.4%との事である。学校側は学生の質の低下をその原因に説明しているらしいが、仮にそうであるなら、法科大学院の入試のハードルを高くして、司法試験無理な学生はそもそも入学させない様にすべきでは無いか。

入学金、授業料をしっかりと徴収し、揚句に学生が馬鹿だから司法試験に合格出来ないと弁明するののは、教育機関としては言語道断と思う。

最後に、マジョリテイーと成る、最終的に司法試験を不合格と成った学生への処遇である。

社会人が、職を辞して司法試験にチャレンジし失敗した場合は無論悲惨である。しかし、最短距離で司法試験にチャレンジしたとしても、22才で大学法学部を卒業し、24才で法科大学院を同様卒業。その後、3度迄は司法試験にチャレンジ可能なそうなので、結果、最短でも27才での社会人デビューと成る。

司法試験にチャレンジした結果とは言え、現在の土砂降りの雇用状況から推測して、企業がこう言う若者の採用に積極的とは全く思えない。従い、大多数はフリーターとして社会人デビューするしか無いのでは無いか。

裁判官や弁護士を目指し努力を続けた結果、30才を手前にフリーターにしか成れないというのは、矢張り、制度の設計に重大な瑕疵があると考えざるを得ないのでは無いだろうか。

日本人の様に、優れた秩序感覚を持つ民族が、直ぐに訴訟に直行する様な訴訟社会を好ましいと、考えるとはとても思えない。

そして、法の支配は重要であるが、弁護士の数を増やすのが特効薬とは、とても思えない。拡大し続ける、官僚に拠る法の解釈に歯止めをかける事が先決の筈である。その為には、困難ではあるが、政治主導の確立である。

そして、一般の国民が弁護士の助けを必要とするのは、稀に起こる刑事事件に巻き込まれると言った、不幸な例を除けば、民事である。

此の場合、適応される法が何で、その法の解釈、そして類似ケースの判例が判れば対応を考える事、左程困難とは思えない。

近い将来、クラウドが解決してくれる筈である。現存する規制がクラウド活用のボトルネックならば政府は規制緩和すべきである。

いずれにしても、法科大学院卒業生の失業問題が深刻化して、傷深める前に、制度の抜本改革をすべきと思う。

コメント

  1. nutsack5866 より:

    法科大学院修了生の失業問題と言っても、いわゆる三振者、司法試験に3回不合格となって受験資格を喪失した者は、年間せいぜい4000人しか生まれません。
    それを失業問題というのは少し大げさではないでしょうか。

    問題は、司法試験には不合格とは言っても法律学の最低限の素養を身につけた修了生という人的資源が、ホワイトカラーとなることすら出来ずにみすみす埋もれさせられていくことでしょう。
    修了生自身の多くは、30歳前後であっても、大卒初任給程度の待遇からのスタートとなることも、契約形態が非正規となることも厭いませんが、実際にはこれすらかなわない。
    30歳前後の三振者の多くは実務経験がないので、採用試験に申し込みすら出来ないのです。

    その原因は、三振者の失業問題などではなく、日本の労働市場の硬直性でしょう。
    社内に向けて最適化されていない30歳を受け入れる事のできる下地がない限り、法科大学院は、25%の法曹と、75%のほとんどを占めるブルーカラー/非正規社員の供給所であり続けることでしょう。

  2. octagonaltower より:

    この手の議論は結構よく見るのですが、全く理解に苦しみます。ふつう、大学に行ったのに就職できないのは大学の責任だとか、社会の需要以上に大学生をつくったからいけないのだなどという議論は理解されないでしょう。それなのに、なぜ法科大学院に限って、進学希望者に法曹資格や就職先まで確保してあげないと問題視されるのか?
    様々な紛争解決や制度運用に、より法的な思考を活用できる社会にしようというのが、法曹資格者数増加の背景にある考え方でしょう。別に今まで「弁護士」と名乗ってきた人々と同じような仕事をする人の数を増やすことだけを意味するわけではありません。実際、新司法試験に合格し、一般企業で活躍している人は、私の周囲にも大勢います。新試験自体を断念し、ちゃんとした企業に「法務博士」として就職した人もいます。
    合格率に関しては、確かに低いと言えば低いでしょうが、研修所の二回試験の不合格者が増えていることからも、旧試時代よりも質が低下するリスクは懸念されるわけで、慎重な運用は当然のことでしょう。強いて問題をあげるとすれば、法曹資格の前提として司法修習を義務づけているので、研修所の収容力によって合格者の最大人数が規定されてしまっていることかも知れません。

  3. agora_inoue より:

     法科大学院制度(新試験)が、旧試験と比較して優れているのかどうかを検討すべきなのですが、旧試験制度の司法試験合格枠は次第に削減され、ついに消滅してしまいました。
     比較する対象が存在しないため、果たして法科大学院教育など必要あるのかどうかは、誰にも断言できないものとなっています。
     法曹関係者から仄聞するところでは、
    「実務法律学の勉強の基礎とは、基本書籍の精読と定型的な知識の暗記である。独学で十分であり、達成度は○☓式のテストで評価可能である。教師による指導を必要とする弁論や記述などは、基本知識を暗記した後に行うべきである。しかるに、現在の法科大学院では、ただ本を読むだけで憶えられる知識を授業形式で教えていて、時間と費用の効率が悪すぎる」
    という話です。
     本質的な問題は、法曹養成問題を議論する場に呼ばれる人々は、ほとんど全員が、法学部か法科大学院の関係者であり、言わば、学校制度に買収されてしまっているので、「法科大学院なんかいらない」とか、「旧試験制度を存続させるべき」とかいうような、自己の立場を危うくするような発言はできないということです。
     それは、また、医療系資格でも、全く同じことが言えるのです。

  4. m_akkie より:

    闇でもなんでもく、自分が将来を考えたときに調べて考えれば、誰でも分かる事実。それでも受けるかどうかはまさしく個人の判断。弱者の味方を装いつつ、結論は個人の選択の幅を狭めるだけの逆方向の改革を行えと叫ぶのはそろそろ止めるべきでは。

  5. kenta_f0219 より:

    そもそも「法科大学員」や「3,000人の合格者」が必要であったのかを考える必要があると思います。欧米と比較して少ない弁護士の人数を増やすため、ということが理由であったと記憶していますが、行政書士その他の司法隣接業務資格に相当する欧米の資格はなく、それを含めると現在でも決して司法関係者の人数は少なくない。問題は弁護士に限られた司法関連業務が多いことで、実際には行政書士などで十分な業務も弁護士に限られている場合があるのではないだろうか。これは弁護士が忙しいにも関わらず仕事を抱え込んでいるに過ぎない。
    司法改正というのであれば、何も有資格者を増やす必要はなく、弁護士に限られた業務を他の有資格者に開放すればよい。そもそも司法試験の合格率を上げるために、法科大学院という関所を設け、司法試験受験者を少なくして「合格率が上がった」と喜んでいる程度のもの。数年経てば、法科大学院卒の司法関係者が第一線に立つのであろうが、質の低下を招くのではないだろうか?

  6. armedlovepower より:

    法曹界でも医療業界でもふつうの会社でも学校でも家庭でも、どこもかしこも自分の視点だけで物事を判断する利己主義的意識レベルの意識の集団であるかぎり、なにをやってもうまくいかないという現実を、社会全体まるごと使って見事に実証しているフィールドがこの日本なんだと思います。

    そしてこの現実を素直に認識する事ができるのかできないのかが、その人と組織の未来を決定づけます。
    (認識できない)後者の意識にとっては出会うあらゆる問題は他人のせいであり、自分の視界に映るものすべてに当り散らす行動となり、それは決して賢明な理解者を得られることはないという事実は、山口様のこれまでのメッセージ群とそのコメント者の反応を見ても明らかです。

  7. p6zrx より:

    法科大学院批判は、木を見て森を見ない議論です。問題の元凶は、人為的な数に司法試験合格者数を限定していることでしょう。もともとの司法制度改革は、合格者数を漸増していき、数にとらわれた制度設計から、国民の真のニーズに牽引された制度へ移行しようという狙いがあったと考えられます。しかし、合格者数の抑制と削減に既得権益を有する勢力が、一面的な見方からの「質の低下」論を持ち出し、法科大学院が批判の矢面に立たされています。社会のニーズに応える法律家の素養には多様な面があり、試験という方法では(どのような試験であれ)、それを適正に評価することは不可能でしょう。根本の解決は、免許制を廃止することにより、人為的な数にとらわれた議論から制度を解放することであると思います。これにより、法科大学院や法学部も、硬直的で不合理な官僚的統制から解放され、継続職業教育も含め、本当の意味での社会のニーズに応える教育を自由闊達に行うことができるようになると考えます。

  8. octagonaltower より:

    p6zrxさんのコメントについてですが。
    概ね同意はできるのですが、合格者数の抑制・削減論を「既得権益」だけで説明し、「免許制廃止」にまで飛躍されるのは、ちょっと行き過ぎかと思います。「免許制廃止」を字義通りに受け止めれば、希望者は誰でも弁護士業務が出来るということでしょうが、まさかリンカーンの時代のアメリカ中西部ではあるまいしと思います。弁護士や医師も全部自由化して市場競争に委ねよというのも一つの考え方でしょうが、最低限の法律知識すらない人に「弁護士」という看板を掲げさせるところまで飛躍するのはどうでしょうか?誰でも「医師」を勝手に名乗れ、経歴だけディスクローズしておけばいい、なんて世の中はかえって不便じゃないですか?
    人為的な数にとらわれた議論からの解放、というご主張には同感します。しかし、人為的な数がどこから来ているかというと、「既得権益」よりは司法研修所の収容能力による点が大きいという事実はご理解頂きたい。最高裁が司法修習にこだわるのは、「既得権益」があるからとは思えず(修習生から謝礼が取れるわけではない)、「法曹=裁判実務者」という観念にとらわれているからだと思います。この固定観念から脱却し、広く法的な知識・思考能力に優れた人という程度で差し支えないと割り切れれば、司法修習は不要となり(たぶん裁判官、検察官の内定者だけを対象に実施することになるでしょう)、アメリカの州の司法試験のように、絶対評価に近い形で法曹資格を付与することが可能になるのだと思います。