国際競争力を強化したい企業は、「大学のあり方」に注文をつけるべき。

松本 徹三

昨今、日本企業の競争力が衰えつつあると感じている人は至るところにいるようだが、その根源の一つである「教育制度」にメスが入れられる気配は殆どない。一方では、「就活」の問題が大きな話題となっているが、その根本にある「企業の大学教育に対する不信」については、特に語られることもなく、「大学教育の改革」が具体的に論じられることもない。


かつての「英国病」程ではないとしても、「日本病」は確実に存在し、徐々に蔓延しつつあるように思われる。こういう病の源泉は、いたるところに広がっている「空気」のようなものであり、これを一気に吹き飛ばすような特効薬はない。しかし、幾つかのポイントに何らかの新しい仕組みを組み込む事によって、流れが変わるきっかけを作るぐらいの事はできそうだ。私は、「大学教育の改革」にそういう可能性があると思っている。

現在の世界経済の潮流を理解して、日本企業が今何をしなければならないかを考える事は、さして難しいことではない。

近代史を特徴付けた「帝国主義(植民地争奪戦)」の潮流は、第二次世界大戦とその後の「東西冷戦」、更には最近の「ソ連圏の崩壊」によって大きな変質を遂げ、「民族自決」の原則によって多くの「発展途上国」が生まれた。そして、欧米諸国の資本主義体制に支えられた「多国籍企業」は、貿易と資本の自由化を強く推し進め、「発展途上国」もそれによって或る程度の恩恵を受けつつある。「多国籍企業」にとっては、「発展途上国」は「新市場」であると共に、「安価な人的資源の供給元」でもあるからだ。

現代においては、国力の源泉は、「軍事的能力」や「天然資源」以上に、「人的資源の質と量」である。敗戦で全てを失った日本が短期間のうちにGDPで世界第二位の大国に上り詰めたのもそのお蔭だし、中国の超大国化が今や必然であると思われているのもそれ故だ。

現在の世界を支配する原則は、「生産性の高い人間は、それにふさわしい生活水準を享受して然るべき」という原則である。「多国籍企業」の経営者や株主は、学ぶ事にも働く事にも興味を持たない自国民より、勤勉な「発展途上国」の国民により大きな期待をかけ、「発展途上国」の国民が自国民より高い生活水準を享受することになったとしても、決して不愉快ではないだろう。彼等が「多国籍企業」に魅力的な新市場を提供してくれるからだ。

「同じ能力を持ち、より勤勉に働いていても、肌の色が異なっていれば、低い生活水準に甘んじるべきだ」と言う人はどこにもいないだろう。それならば、「同じ能力を持ち、より勤勉に働いていても、たまたま異なった国に生まれれば、低い生活水準に甘んじるしかない」とも言えない筈だ。もしそれが現実に起こっているとすれば、それは、「その国の為政者が、何らかの思惑で、不必要な壁を作為的に作って、それを妨害しているからだ」と考えるしかない。(韓国と北朝鮮、タイとミャンマーの一般国民の生活水準の差を考えてみると、それは容易に理解出来る。)

さて、平均的な日本人が、遺伝的に近代工業社会にうまく適応する能力と性格を持っていることは疑う余地もない。しかし、その点で日本人が「突出」しているかといえば、そうとも言えないと思う。

一方、「生産性」の差に「能力」以上に大きな影響力を与えるのは、「学ぶ意欲」「働く意欲」だろう。かつての日本人は欧米人以上にハングリーだったから、その分だけ「生産性」が高くなり、従って「生活水準」も急速に上がったのだ。しかし、今や、平均的な日本人の「ハングリー精神」は、韓国人や中国人は勿論、東南アジアの人達やインド人の平均値よりも相当低くなっているようだ。もしそうなら、平均的な日本人の生活水準が、彼等の生活水準と比べて何時までも高く維持出来るという保証はどこにもない。

つまり、これからの世界経済は、「先行した欧米」、「追いついた日本(及び、ほぼ追いついた韓国)」、「これから追いついてくるだろう中国やその他の発展途上国」が、渾然一体となって形成していくという事だ。「競争」においても然りで、これまでは欧米に追いつくことだけを考えていればよかった日本人が、これからは、発展途上国の人達と、「能力」と「働く意欲」の両面で競い合わなければならなくなるという事だ。

海によって外国と隔離されている日本は、明治以前には、基本的に日本国内のことだけを考えていればよかった。外国と没交渉ではいられない事がはっきりした明治以降も、日本人には、常に「日本」と「海外」を対立させて考える傾向があり、「世界の中の一つのコンポーネントである日本」という発想は生まれなかった。という事は、真の「多国籍企業」となるのに必要な基本精神を、日本人は欠いてきたという事なのだ。

そうなると、これからの「生産性」の競争においても、「日本企業」と「日本人全般」は、明らかに不利だ。世界各国の均質化が促進される事は、どの国のどんな企業にとっても「世界市場」の比重が国内市場よりはるかに大きくなる事を意味し、従って、国際ビジネスにおける「生産性」の高さが、これまで以上に重要になるからだ。

比較的高いと思われる「日本人の能力」にも問題がある。日本人の持つ「細部の完成度へのこだわり」とか「規律」「我慢強さ」「自分の役割への責任感」等は、複雑な工業製品を作り上げるのには大きな強みとなってきたが、「白紙に絵を描く構想力」や「発想の飛躍」が求められる分野では、あまり役に立たないだけでなく、むしろ弱みになる事もあるからだ。日本人は、下手をすると、常に小さな「自己満足」の中に閉じこもって、いつまでも「大きな流れ」に乗れないことになってしまうかもしれない。

この事を、日本の企業は良く考えなければならない。これまでは、各企業の人事部は、ひたすら素質のありそうな大学の新卒者を採用し、あとは社内の各部署で、「先輩達が日常の仕事を教え込む」という方策を取ってきた。しかし、こんな「徒弟制度に毛の生えたようなやり方」では、「これから必要となる能力」を身につけた人材を、タイムリーに確保することは難しくなるだろう。

熾烈な国際競争に立ち向う各企業は、「将来の貴重な戦力となる新入社員の大学時代の4年間を、『競争』というものを理解しない大学当局の手に、もはや漫然と委ねているわけにはいかない」という考えに至るべきだ。

それぞれの「大学」や、それぞれの「学部」には、建学以来の「高邁な理念」がある事は承知しているが、個々の学生本人や、その学費を捻出している父兄の本音から言えば、「大学」は概ね「就職予備校」に過ぎない。これまでは、「〇〇大卒」という「看板」に最大の価値があると見做され、それ故に「大学受験」をピークとする摩訶不思議な価値観の体系が多くの人々の間に形成されてきた訳だが、この様な歪んだ価値観は、もうこれ以上野放しにされていてはならない。

私は、最近、大前研一さんが始めた「ビジネス・ブレークスルー(BBT)大学大学院」のシステムについて詳しく知る機会を得たが、「自ら考えること」「議論すること」を重視する一方で、ITを駆使して効率化を徹底するこの新しい「実践教育」のあり方に、大きな感銘を受けた。現在は、主としてMBAの取得を志す社会人や、企業内研修に利用されているようだが、「一般の大学もこの様なやり方を極力取り入れるべきだ」と、私は強く感じた。

聞くところによると、こういう新しい教育手法を導入する事については、殆どの大学の教授会が反対するらしいが、企業側が経済団体などを通じて遠慮なく注文をつけていけば、内心では何も変えたくないと思っている教授会も、真剣に検討せざるを得なくなるだろう。企業の支持を受けない大学に入学することは、将来の「就活」が不利になることを意味するから、受験生にとっての魅力が薄れ、これはそのまま大学の経営を直撃する事になるからだ。

私見では、4年制の大学生は、理系たると文系たるとを問わず、最初の二年間は、専攻分野に進むのに必要な基礎知識を習得する一方で、「外国語」と「ITリテラシー」を徹底的に叩き込まれるべきだ。そして、後半の二年間には、それぞれの専攻分野で「問題発見型」「問題解決型」のトレーニングを徹底的に受けて、「情報分析力」「構想力」「発想の転換」等の能力を身につけるべきだ。また、その中で、海外でも通用する「プレゼンテーション能力」や「ディベート能力」の習得も、当然行われるべきだ。

現状を放置すれば国際競争力が必然的に衰えていくことに、無関心でいられる企業はないだろう。そうであるなら、こういう企業こそが、「教育改革」の先頭に立つべきだ。特に、名の通った大企業の経営者は、自分達の持つ大きな影響力をよく認識して、自ら進んで体制変革の先頭に立つべきだ。