クラウアーの二重決定仮説(*ややテクニカル)

池尾 和人

近頃、ときどき「ワルラス法則」という言葉を耳にすることがあって、懐かしい気がするとともに、過去の様々な議論の成果がほとんど継承されていないことに残念な思いをしている。私が大学院生をしていた1970年代の後半は、ワルラス的な一般均衡論のパラダイムが(完成したがゆえに)活力を失い、それに代わって非ワルラス的経済学(Non-Walrasian economics)と呼ばれるような考え方が隆盛してきた時期だった。非ワルラス的経済学をめぐる議論の中には、ケインズ経済学の再解釈やそのミクロ経済学的基礎を問う議論も当然に含まれていた。


ケインズ経済学のミクロ経済学的基礎を考えるとすると、供給が需要を生むという「セイの法則」が成立することはないとしたケインズ的世界において、「ワルラス法則」をどう理解するかということが否応なしに問題とならざるを得ない。貨幣を含まない(あるいは、あらゆる財が実質的に貨幣として機能する)ワルラス的な世界における「ワルラス法則」は「セイ法則」の別名でしかないからである。他方、「ワルラス法則」自体は、ある種の恒等式とも言えるものなので、それが成立しないということはできない。

それでは、(ある特定の財のみが貨幣として機能する)貨幣経済における「ワルラス法則」をどう理解したらいいのか。この疑問に明快な答えを与えたものが、「クラウアーの二重決定仮説(Clower’s dual decision hypothesis)」である。クラウアーは、

ワルラス法則は観念的市場超過需要については相変わらず妥当するが、一般的には完全雇用状態以外のいかなる状態とも無関係である・・・(花輪俊哉監訳『ケインズ経済学の再評価』東洋経済新報社、1980年、p.122)


と主張する(注1)。ここで観念的(notional)市場超過需要といっているのは、個々の経済主体が予算式だけを制約条件として意志決定を行った場合の超過需要を集計したものである。この種の予算式だけを制約条件として(何らかの目的関数を最大化することで)得られた需要量ないしは供給量のことを、以下ではより分かり易く、意図された需要量ないしは供給量と呼ぶことにしよう。

(注1)因みに、国会での山本幸三代議士の質問に対して、白川日銀総裁が「ワルラス法則は基本的に完全雇用の世界の話ですから、不完全雇用でワルラス法則を当てはめてはどうかなという感じ・・・」と答えたと伝えられているが、その答弁は、完全雇用状態以外ではワルラス法則はirrelevantだとしている点で、このクラウアーの主張と符合したものになっている。

この意図されたレベルについて、当然に「ワルラス法則」は成立する。それゆえ、(貨幣以外の)財・サービスに関して、意図されたレベルで超過供給になっていれば、貨幣に関しては意図されたレベルでは超過需要になっていることになる。

しかし、価格が硬直的で、数量(所得)制約が存在するケインズ的世界では、予算式だけが制約条件ではない。各経済主体は、所得制約も考慮に入れて意志決定しなければならない(このことが、「二重決定」の意)。そうした二重決定を経て(事後的に)需給が一致したときの結果を実現した需要量ないしは供給量と呼ぶことにしよう。実現したレベルでも、それはそれで「ワルラス法則」は成立している。ただし、このときの「ワルラス法則」というのは、売った人がいれば買った人がいるはずである、売った人がいるのにそれを買った人がいないということはあり得ないといった程度の話に過ぎない。

(貨幣以外の)財・サービスに関して、意図されたレベルで超過供給になっていても、それが価格調整によって速やかに解消されないのであれば、人々はその事実を考慮に入れて再決定しなければならない。平たくいうと、財を売りたいだけ売れるという前提でいたのが、そうならなかった(意図された財供給>実現した財供給)とすると、そのときには貨幣需要も見直さなければならなくなる。結果として貨幣需要は、財を売りたいだけ売れると思っていたときのものよりも小さくならざるを得ない(意図された貨幣需要>実現した貨幣需要)ということである。

したがって、(貨幣以外の)財・サービスに関して、意図された供給が実現した需要(=実現した供給)を上回っていることは、貨幣に関しては意図された需要が実現した供給(=実現した需要)を上回っているということになる。しかし、このことは、貨幣に関して実現した需要を上回る供給を意図すれば、(貨幣以外の)財・サービスに関して実現した供給を上回る需要が発生するということを何ら意味するものでない。むしろ、貨幣供給を増やそうとしても、貨幣需要がついてこないので増やしたくても増やせないと考えられる(注2)。

(注2)もちろん、貨幣当局が自ら(貨幣以外の)財・サービスを購入して、その見返りとして貨幣を供給するという政策(ヘリコプター・マネー)をとるなら、話は別である。

クラウアー達の議論は、価格の硬直性と数量制約の存在をアドホックに仮定しており、何故にそれが生じるかを内生的に説明するものではなかったので、次第に過去の議論となっていった。しかし、その議論のすべてが意義を失ったわけではない。現実の貨幣経済において、各経済主体が予算制約式だけを考慮して行動できるものではないことは確かな事実である。財市場や労働市場で思うように財やサービスを販売できなければ、その分だけ貧しくなって(所得制約から)貨幣需要は減らさざるを得ない。

「もしもっと財やサービスが売れるなら、もっと貨幣を需要したいはずだと観念的に想定できる」ということと、「貨幣供給が不足していて、満たされない貨幣需要がある」ということとは、明確に区別されるべき全く別の事柄である(計画値についての話と実現値についての話を混同してはならない)。前者は後者を必然的に含意しないし、実現した貨幣需要に受動的に貨幣供給が行われているというのが、日本の現実である。

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なお、この記事で述べたことの概要は、ウィキペディアの中の「ロバート・クラウアー」「クラウアー・モデル」の項目でも解説されている。

コメント

  1. 池田信夫 より:

    この記事だけ読んでも、ねらいがわからないと思うけど、これはリフレ派がよくいう「財市場が超過供給になっているときは貨幣市場では超過需要があるはずだ」という話への反論ですね。

    http://synodos.livedoor.biz/archives/1475483.html

    そもそもワルラス法則は会計的な恒等式だから、そこから何もいうことはできない。財の超過供給が貨幣の超過需要に等しいというのは、売れ残った商品の価値が店の赤字に等しいというだけのことで、商品の売れなかった店が貨幣を需要しても、誰も金をくれない。それがケインズの「有効需要」の意味。

  2. shuji1978 より:

    なるほど。正直池尾さんの記事だけ読んでも何が何やらよくわからなかったのですが、リンク先の話と合わせてみると理解できました。

  3. asis80econ より:

    昔のことだと少し覚えていますが、パティンキンとクラウアーが前後して問題提起し、バロー・グロスマン(バローは合理的期待に移行)やJ.べナシー、H.バリアンなどがやや厳密に一般均衡モデル化したのが70年代後半だったと記憶します。前後してジョブサーチ論などがあって、根岸先生が、どんなマクロ経済学かを明確にしてミクロ的な基礎の議論を行うべき、と言う趣旨でミクロ的基礎の議論をされていた(個別供給主体が水平でなく右下がり、または屈折した需要曲線を想定する一般均衡)と記憶しています。
    その後の展開は十分に理解できていません。ブランシャール・フィッシャー(これもすでに古いのでしょうが)の教科書には、清滝先生の85年のPhD論文“独占的競争下でのマクロ経済学”訳はこれでいいでしょうか?が参照されています。
    そういえば、昔々に根岸先生が独占の均衡解存在証明をされたような記憶が漠然とあります。期待と情報の不完全性、価格の粘着性を織り込んだ動学的確率一般均衡モデルも、政策論議に使うレベルとなると限界がありそうです。時系列分析的データ処理とシュミレーションで外的ショックを与えるといった議論を「国会」でやるのは難しそうに思いますが。。