アンシャンレジームは、フランス革命以前の社会や政治の体制、また秩序のことですが、昨日の名古屋市長選、愛知県知事選、名古屋市議会解散の是非を問う住民投票のトリプル選挙は、まさに地方政治のあり方、国家が地方に押し付けてきた日本のアンシャンレジームに対して、住民がノーを突きつけた選挙結果となりました。しかも、自民党は、民主党王国が崩れた、菅政権へのレッドカードだとしていますが、この選挙は、民主党にも、自民党にもノーを突きつけた選挙でした。従来は、政権与党への不満を野党が吸収するという構図が崩壊したのです。
最初は小さな穴から水が漏れ、やがて堤防が決壊する。まさにそれを予兆させる結果だと思います。おそらく4月の統一地方選挙では、名古屋に続く動きが広がってくるでしょう。すくなくとも大阪は確実に、民主も自民も歴史的敗北を味わうことになる公算が強いと思われます。
河村市長への批判は、「ポピュリズム」だという批判と、減税にはその裏打ちとなる財源や政策の「具体性がない」という批判です。それは大阪都構想を掲げる橋下知事への批判と重なります。
ポピュリズムでしょうか。そういう側面があるかもしれません。産経は、八木秀次高崎経済大教授の言葉を借り、「市民に分かりやすい政策だけで、古代ローマの政治手法『パンとサーカス』だ。パンは減税、サーカスが敵を作り上げてやっつけることだ」としています。それは、まさに小泉内閣そのものでした。
【トリプル投票・視点】大衆迎合“パンとサーカス” 政策論議なく河村人気先行 – MSN産経ニュース :
しかし、それがたとえポピュリズムであったとしても、「パンとサーカス」であっても、国民のなかに、日本のアンシャンレジームへの不満のマグマがたまりにたまっていなければ成り立ちません。
しかも古代ローマやナチスが台頭した時代と異なるのは、現代は情報化社会であり、さまざなま意見や情報が膨大に流れ、かんたんに大衆操作も洗脳もできる状況ではないということです。
佐々木俊尚さんが、著書「キュレーションの時代」で示されているように、マスの情報操作で大衆を動かせる時代は、ビジネスでも、政治でももう終わってきているのです。河村候補も、大村候補もテレビでの出演も多く、確かに知名度があったことは否定できません。だから青島都知事や、横山ノック知事と重ねる人もいますが、かつては、政治への関心が薄かったから、タレント知事が誕生したのですが、今回は政治への関心が高まったからの結果でした。タレント議員としての人気だけで、あのリコール署名を集めることは不可能です。
名古屋でも、減税政策を「パン」、つまり目先の利益に市民が飛びついたというよりは、市民が停滞する議会や行政の改革を願ったから議会解散への署名にあれだけの多くの人たちが参加し、昨日の投票行動になったと見るべきでしょう。
昨日の名古屋のトリプル選は、歴史の必然だったともいえます。国民は、もうとっくに日本のアンシャンレジームにイエローカードを突きつけていたのです。
小泉内閣が誕生し、国民の支持を集めたのも「自民党をぶっ壊す」という小泉元総理の言葉でした。小泉元総理の改革への本気度に人びとが期待したのです。しかし、その後は改革がゆるみ、やはり自民党では駄目だという失望感に変わっていきました。
さらに政権交代が起こったのも、民主党が政治を変えてくれるという期待感からでしょう。しかしこの国を変えてくれそうにないという失望に変わって来たから支持率が落ちてきているのです。みんなの党にも期待が集まりましたが、その後は、これまでの既成政党との違いを見せられず、たんなる泡沫野党だとして、その期待感も薄れてきています。国民は時代の変化に対応できず、閉塞してしまった政治に、一貫して新しい切り口と変化を求めてきたのです。
具体性がないという批判にも危うさを感じます。変化にはリスクはつきものですが、リスクを避けようとすると、過去との整合性を過度に求めることになります。そこに典型的な官僚支配が生まれてきます。
更地にすれば、新しい秩序にもとづいた具体性も生まれてきます。
国民が求めているのは、各論での具体性ではなく、この国、あるいはこの地域をどう再建し、活性化するかという哲学やビジョンであって、そういった調整型の、あるいは官僚型の細かな具体性ではありません。いったん更地にして、新たな秩序を創造することを期待しているのだという捉え方をすべきでしょう。
国を変えるプレイヤーの存在が見えない以上、地方からスタートしなければ、日本は変わらないという人びとの意識はますます高まってくるのではいでしょうか。